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L'art de croire             竹下節子ブログ

フェーメンの活動、ゲイの結婚法、アセクシュアリティ

4月23日、ベルギーのブラッセル自由大学で、カトリックのアンドレ・レオナール大司教とギイ・ハルシャー名誉教授が「冒聖: 表現の自由か侵害か」というテーマで公開討議を始めた途端に、裸の上半身に抗議文を書いた四人の若い女性がカメラマンと共になだれ込んで、怒号と共に、大司教に聖母型の容器に入った「聖水」を浴びせかけるという事件が起こった。


彼女らはカメラマンと共に去ったので、最初からメディアに流す目的でのパフォーマンスであったらしい。

この女性権利団体フェーメンはトップレスで抗議することで有名(パリでは展示中のノートルダムの鐘を叩いたりした)なので、もともとニュース性がある。

ウクライナが発祥の地で、ロシアのパンクバンド、プッシー・ライオットがモスクワの救世主ハリストス大聖堂でプーチンに抗議して厳罰を受けたということで、ドイツ訪問中のプーチンにも抗議してすぐに取り押さえられたが、プーチンがにやにや眺めていたのが印象的だった。

ベルギーでは、水をかけられた大司教は落ちついて祈りの体勢に入ったので、その姿が共感を呼んで、それまで大司教に批判的だった会場の人々からの支持率が一気に上がったという。討議相手の教授の方も、意見を異にする者同士が話し合う場を壊す行為を糾弾しているし、何よりも、フェーメンのメンバーがカメラマンを引き連れての行動であったことに、スキャンダル作りの商業主義を非難する声が上がっている。

フェーメンのような活動はウクライナ生まれであるように、政教の癒着や全体主義的統制の残っている地域では一定の意味があっても、ベルギーやフランスのような国ではあまり意味をもたない。

このアンドレ・レオナール大司教という人は、確かに、同性愛者について、そのような性的傾向は自分で選べないものであり、その原因も解明できないままではあるが、そういう傾向に気づいた人は独身の道を選ぶのがベターである、というような発言を最近していて、それが今回攻撃されたわけだ。

でも、自身も独身を選んでいるカトリックの大司教が、一昔前のように同性愛が大罪であるかのような扱いではなく、いわば、目立たないようにしなさい、と言うくらい、別に強制力がないのだからどうってことがない気がする。
カトリックの大司教の言うことが本当にそんなに気になるのだろうか。
気になるような人は黙って悩んでいるだろうし、気にならないような人にとってはどうでもいいことなのではないだろうか。

それともただ、トップレスの女性たちが司教に向かって聖母型容器から水をふりかけるという図が「絵」になるので宣伝に使っただけなのだろうか。

フランスでは先ごろ同性婚法(関連記事)が議会を通過したところで、それが「伝統的な家族を壊す」としての反対運動も過激化している。私は前にも書いたように、この法律は方向を間違っていると思っている。この法律はアンチ同性愛陣営が過激化する口実を与えてしまった。

こんなことは誰も言っていないが、あるいは気づいていないのかもしれないが、「同性婚」法に嫌悪を感じる人たちが少なくないのは、実は、「結婚」を性的なものにすることに嫌悪しているのではないのかとも思う。

フランスでは結婚の「秘跡」はずっとカトリック教会の専売制度で、フランス革命の後、「共和国」か゛それを全面的に占有しようとした。で、市役所に結婚式ホールを設けて、三色旗の襷をかけた市長や助役が厳かに結婚式を取り持ち、説教もして、指輪の交換もして、祝福して送りだす。

つまり、日本の結婚のように、役所に届を出すという散文的な手続きのみの「入籍」と、家族や友人の前で挙式したリ披露したりするというシンボリックな部分が分かれていない。

政教分離どころか、役所が「聖なる部分」を教会から奪って成立しているのだ。役所の手続きと「式」とが一体化している。

だからこそフランスではその共和国の結婚証明書がなければ教会での結婚式も挙げてもらえないことになっている。

日本では入籍する前に結婚式を挙げる人や結婚式をしても入籍しないままというケースもある。逆に入籍を促すのは妊娠や出産であることが普通だ。

フランスでは妊娠出産自体は結婚の動機にはならない。日本風にいう「婚外子」が半数を超える国である。

ところが、よくよく考えてみれば、聖バレンタインの昔には愛し合う二人の合意だけを祝福したキリスト教の結婚制度も、その後は、夫の財産継承や子供や母親の立場を保護するものに過ぎなくなったので、共和国婚もそれを踏襲したものにすぎなくなった。だからこそ、「婚外子」でも父親の認定や母子の権利が保証される世俗の法律さえ整うと、「結婚」自体にあまり意味がなくなったわけである。

それでも結婚「式」が維持してきた含意とは、それを聖なるもの、祝福されたものとするところにある。

で、逆説的にだが、「聖なるもの」とは、実は性的なものを拒否するのだ。

まず、男が自分の財産や地位を実施に継承させたいという意思を持つ時、血筋を保証するために「妻」を「母」として囲い込む必要がある。「妻」も財産の一部なのである。「性的存在」ではない。その証拠に「愛人」という言葉は常に「婚外」の関係を指している。

また、「病める時も健やかな時も」というように、病や老いなどによって互いが「性的存在」でなくなった時にでも、社会的な身分や暮らしの安定を互いに保障し合う意味で、結婚の「聖」化が必要なわけである。

結婚とは「性的存在」でない男女を社会的単位として囲い込む制度と課している。

そして、これもあまり誰も言わないことだが、多くの女性は実は、「アセクシュアル」ではないかと私は見ている。

セクシュアリティを語る時、同性愛も異性愛も両性愛もはっきりと線引きのできる区分ではなくホルモンの量などによるスペクトルであることは知られている。

そして、女性のマジョリティは、多分、子供を安全に生んで育てるために、アセクシュアルの傾向を持っているのではないだろうか。アセクシュアルというのは別に性的欲望がないとか、妄想がないとかいうものではなくて、生身の人間と実際に性関係を持ちたいという欲求のイニシィアティヴがないという「性的傾向」である。

たいていの女性は、心身の危険(妊娠や病気や暴力)がなく社会的な強迫も制裁もないのなら、相手が誰でもなんでも、気持ちよくさせてくれるものならOKというだけで、特定の相手を見て自分から欲求を満しに行くということはない。

実際は、「心身の危険がなく社会的にも安全な相手」というのはほとんどの場合が「夫」であるが、その「夫」は妻を「性的存在」として見ないのであるから、妻の快感のために努力することもなく、「結婚」はますます「無性」的なものになり、「聖」なるものだけがかろうじて残る。

もちろんある種の女性は、異性愛の男性が女性に抱くような積極的欲望を女性に対して抱くのだが、そういう真正のレズビアン女性は「男」ではないという先入観のハンディがあるから、相手のために努力し、「性的存在」として接するので、「夫」と「性」が乖離している女性がそういう女性に出会うと、夢中になってしまう。

私の身近にいるレズビアンのカップルというのにはそういうケースが少なくない。真正のレズビアンの女性に誘われてはじめて自分の性的傾向を「発見」したのではなく、もともとアセクシュアルだったのを、社会通念上結婚して、夫からモラルハラスメントなどを受けて「気持ちよさ」の追求さえできなくなっていた時に、献身的に尽くしてくれる相手が現れたから、女性であろうと何であろうとOKなのである。

アセクシュアルの人が「気持ちよさ」を追求するためにはそれが性的なものでなくても別にかまわない。「食べてしまいたいくらいにかわいい」赤ちゃんにほおずりする人とか、飼い猫の腹に顔を埋めて幸福感に浸る人などいくらでもいるが、よほどの倒錯者は別として、そのかわいがっている対象に性的欲求を抱くことなどない。

アセクシュアリティ(人口の1%と言われているらしい)をひとつのセクシュアリティとして認めさせようという運動はかなり最近のものであるが、それを知って、はじめて自分の性的アイデンティティを確認して安心したという人もかなりいる。

ここではこのサイトのフランス語の定義に従って使っているのだが、日本語で検索すると、ノンセクシュアリティ(非性愛)とアセクシュアリティ(無性愛)が区別されていた。(この記事での使い方は非性愛の方に近い。)

女性は結婚生活の中で母としての地位があればアセクシュアリティがデフォルトでもあまり悩まないのだが、欲望にかられて迫っていく側とされる男性にとっては結婚でさえ敷居が高い上、今の消費社会ではセクシュアリティがどこでも強調されてそれこそ「聖なるもの」であるかのように煽られているので、アセクシュアルの男性の疎外感は大きい。
フランスのような国ではなおさらだ。

それに比べるとホモセクシュアルの人たちはこれまでのマイノリティの反動からか、異性愛者のカップルよりもずっと性的なことが多い。

子供がいないダブル・インカムで可分所得が高いこともあって消費者としても市場を形成している。そういうセクシュアルな人たちに性的でない「聖なる」場所である結婚を踏みにじられたくないと思っている人が多いというのは想像がつく。

結婚やアセクシュアリティつながりでもう一つ気になったのは、

プラン・ジャパンというところによる世界中の女の子に教育をというキャンペーンだ。

Because I am a Girlという国際NGOプランが展開しているグローバルキャンペーンで、途上国の女の子や女性たちが「女の子・女性であること」で社会の底辺に置かれ、機会を制限されながら、さらに暴力や性的嫌がらせを受けやすく、早すぎる結婚や家事労働を強いられる現状を打開しようというものらしい。

しかしその

「13歳で結婚。 14歳で出産。 恋は、まだ知らない。」

というキャッチ・コピーの三つめの「恋はまだ知らない」というのは、消費主義社会での恋愛やすべてを性的に語る決まり文句にとらわれ過ぎている気がする。

「13歳で結婚。 14歳で出産。」という社会において、女性が「性的存在」としてではなくモノ、財として扱われているというのは事実であるし、そういう状態から女性を解放すべきなのは当然だと思う。

けれども、「若い時にはまず精いっぱい恋をしなくてはいけない」というふうな言辞は、「結婚しないと社会的に一人前ではない」というのと同じで、一部の人には無用の圧力になる。

女の子は恋に恋することがあって妄想もすることがあっても、必ずしも性的な接触を求めていないという点ではアセクシュアルなことが多いのに、変に「恋」という言葉で煽ると、それにつけ入れられて異性愛ばりばりの男の性的欲望の犠牲者になるのでは、とも思ってしまう。
人間以外の動物で雌が発情して性的な誘いをする場合は、その雌に選択権があることが多いと思う。発情したのら猫をオス猫たちが囲んでも、選ぶのは雌の方なのだ。人間の女の子が発情もしていないのに、性的マーケットの犠牲となってセクシィな格好をして不特定の男の性的対象となるのは危うい傾向だ。

今回のフランスの、「共和国市民の権利としての結婚をすべての人に平等に」という名目の法律は、そんなわけで、「同性愛結婚法」と言われるくらい、「性的」なものだからこそ、性の縛りのなかったパクス(同性または異性の成人2名による共同生活を結ぶために締結される民事連帯契約)の恩恵を受けていた人たちが疎外された気になっているわけだ。

協力して子供を育てているが性的関係のない同性や異性の友人同士とかきょうだいとか、障害のあるきょうだいや友人の法的保護(遺族年金受取の権利など)を用意したいとか思っていた人たちにとって、その方向でパクスが改正されていく見通しは消えてしまった。

同性愛者が結婚によってさまざまな問題をクリアできるなら、ロビーを形成できない同性愛者以外の人たちには力がないからだ。

かといって、「性的関係がない」けれど法律の保護を必要としている二人の人間が、そう簡単に「式」を伴う「結婚」を申請することはあり得ない。結婚式は長い間、「性」を「聖」で飼いならすものであってきたし、「同性婚」を認める新法はそれを「性的なもの」に揺り戻したわけで、「性的関係のない」二人の市民による連帯の保護からはますます遠ざかっていくのである。
by mariastella | 2013-04-29 21:59 | フェミニズム
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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