『大作曲家が語る 音楽の創造と霊感』
少し遅くなったが、
『大作曲家が語る 音楽の創造と霊感 』出版館ブック・クラブ アーサー・M・エーブル(Arthur M. Abell) /吉田 幸弘・訳 という本についてコメントしてみる。 アメリカの音楽雑誌の欧州特派員が19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツを中心に6人の作曲家に取材したのを速記者つきで書き留めた記録だ。 最初のブラームスが、自分の死後50年経てば評価が定まっているだろうから50年待つようにと言ったので、1955年に米国、ドイツでは64年に出版されたという。ブラームスは生前にはそのバイオリン協奏曲が酷評されていたそうで、同時代には毀誉褒貶が激しかった。しかし本人は、自分の音楽がベートーベンのものと同じく「高次の霊から授けられたもの」だと知っていたから、50年後に生き残って評価されることを疑わなかったわけである。 実際、そうなった。 もちろん、霊感のキャッチだけでは作曲できない。作曲の技術を知り尽くしていなくてはならない。 全能者と意思を通じ合う天性の感性と至高の技芸とが結びつくところだけに名作が生まれる。 音楽論というより神学や哲学が繰り広げられる。 20世紀末のヨーロッパの宗教事情がこのように生き生きと書かれているものをはじめて読んだ。 つまり、イデオロギーとしての「無神論」や唯物論が勢力を広げていた時代、ダニエル・ヒュームのような霊媒師が社交界で空中浮揚を披露し、それを見た少なからぬ知識人やアーティストたちに宗教への回帰が起こった実態である。 また、ブラームスは、当時のもう一つの脱宗教的タームであった「潜在意識」という新しい概念とアートにおける霊感との関係も探っている。 超越的な神が、「選ばれた天才」の魂に内在して、天才の技術を通してのみ自らを表現するという確信は、「高次な汎神論」とブラームスが言っているように神秘主義的でエゾテリックな部分もある。進化論にも興味を抱き、進化の背後に高次の力が存在するという。 科学至上主義と、精神医学の誕生と、その鬼子のような神智学などオカルトの流れが渦巻いていた時代の空気をブラームスのような作曲家がどうとらえていたのかを知るのは非常に興味深い。 もっとも、21世紀の今でも、「神」という言葉を避けた「インテリジェント・デザイン」論などを掲げる福音派などがシェアを広げているのだから、ひょっとして人はそんなに「進化」していないのかもしれない。 この本はそういう思想史、文化史として貴重な証言だと思う。いかにも当時のアメリカの若いジャーナリストでなければ発想できなかったようなテーマだ。 結果として、大作曲家たちの創作の秘密を知りたい、という読者の好奇心も満足させられるだろう。 それは、静寂と集中のうちに、直感を研ぎ澄ませていると、曲の着想が部分でなく「全体」として降りてくる、というプロセスだ。それは結局、自分の内なる神性を顕わにするということでもあるらしい。 その神性というのは宇宙に満ちた「大霊=Over‐Soul」だそうで、大海の一滴にも海水のすべての成分が凝縮しているという話で、グノーシス的な「一者」からの流出だとか万物に宿る「仏性」だとか宇宙をめぐるエーテルだとか「気」だとかを折衷したようなものでもある。 そして、それをキャッチすることなしに創られた創作物は、文学にしろ音楽にしろ、永遠の価値のあるものになり得ず、単なる構造物でしかない。 それが、理解しやすく大衆を喜ばせるようなものであって、時代の好みにマッチすれば「売れる」かもしれないが、寿命は短い。そのような販売戦略にだけ基づいて作られるものも多い。 むろん作曲家が霊感に満たされたとしても、それを作品化する高度な知識と技巧的な手腕は必要不可欠だ。 神は人間が自力でできるところになど介入しないからである。 そうして、少なくとも50年のスパンで見れば、「霊感プラス技術」によって生まれた創作物だけが生き残る。霊感は時代を超越しているからだ。 ただし、これは難しい部分でもあると私は思う。 なぜなら、人間の自力の部分、高度な知識と技巧的な手腕の部分もまた時代の産物であるから、インフラが古くなる、ということはあり得るからだ。 たとえば、ラモーがあのようなすばらしい霊感を受けていて、ハーモニー論も完成していて、完璧な作品を残していても、彼の生きていたその時代の音楽の形式や楽器の種類や性能や音量の限界からは逃れられない。 だからこそ、今となっては、チェンバロよりもピアノの方がインパクトがある、表現力がある、と単純に思う人もいる。実際、ラモーが未来の楽器を手にしていたら、あるいは電子楽器を手にしていたら、同じ霊感を別の形でアウトプットしていたに違いない。 今のバロック音楽奏者が、古楽器を使うことや415ヘルツに調音することにこだわるのか、ラモーの霊感と知識と技能を別の楽器で再現することができるのかという永遠のテーマにもつながる。 オルガン曲やチェンバロ曲をピアノで弾くことで付け加わるものは何か、失われるものは何か、霊感はどの部分に宿っているのか、さまざまな問いが出てくる。 実は、「霊感」はたとえ自分にはそれが降りてこない人でも、作品に現れたそれをキャッチできる人とできない人の二種類がいる。キャッチできる人には、その有無は明白なのだが、キャッチできない人には全く分からない。 演奏者でも同じで、 1.曲に宿った「霊感」の部分をキャッチしてそれを再現している人と、 2, キャッチしていても再現する技能の足りない人、 3. キャッチしていないで形だけの演奏を完璧にする人 に分かれる。 もちろん、「霊感」もつかめずに演奏の技能もない人は問題外だ。 ところが、霊感のセンサーがない鑑賞者には、1と3の区別はつかない。 その上、もともと何の霊感も宿っていない曲もたくさんあって、それらを実に巧く弾く演奏家もいるわけだが、霊感センサーのない人にとっては、それも1や3と変わりはない。 ただし、霊感が降りてくるかどうかは別として、ある作品や演奏に霊感が宿っているかを見分ける霊感センサーの方は、生来のものもあるが、ある程度学習することができると思う。 アートの受容における霊感というものは、創作における霊感と同様に、突然の出会いだったり、成熟したり喪失したりするものだからだ。 私には作曲の霊感というものはまったくないが、ある種の音楽についてはそのありようがよく分かる。 いわゆる絶対音感のない人でも、自分の弾く楽器の音についてだけは絶対音感を持つことができるのと同じかもしれない。 音楽でなければ「霊感」の降り方というものもなんとなく分かる。 ある本の執筆を企画して、参考文献を読みこんだりいろいろ分析したりしていると、ある時点で、突然、自分の書こうと思っているものの全貌が、非言語的に現れてくることがあるからだ。 その後でそれを読みひらくようにして言葉を紡がなくてはならないけれど。 もちろんその全貌が一気に降りて来ないままで書きだすこともある。 技量さえあれば、部分を積み重ねていくことで全体を構成することができるからだ。 短い記事でも同じで、試行錯誤したリ推敲したり切り貼りしたりすることもあるが、最初の一文字を打ち出す時にはまだ何がどう展開するか分からないのに「全体」が見えていることがあって、後はただ文字が出てくるのを見ているだけでいい。 これは別に私が特別なのではなくて、いろいろなクリエーターが似たようなことをあちこちで言っている。 登場人物が勝手に動きはじめるとか、マンガのコマがひとりでに埋まっていくなどだ。 そのタイプの作曲者に交響曲が浮かぶ時は、全オーケストラの音が聴こえてくるので、後でそれを総譜に書き起こすにはそれを楽器別に分別しなくてはならないのだろう。 別に「神に選ばれた天才」でなくとも、何かを生み出すという営為にはある程度はそのような流れがつきものなのだと思う。 実はあまりこのようなことを書きたくなかった。 この本に書かれているようなことは、私にとってはなかなかうまく距離をとれるようなものではないからだ。 だからコメントが遅れたのだ。 しかし、ユニークな近代音楽史としても充分おもしろいし、ほとんど対話だけでできているノンフィクションとしても刺激的である。 ブラームスや著者が懸念したような神や信仰についてのプライヴェートな警戒やオカルト本だと誤解を招くかもしれないという恐れなどは、キリスト教の縛りのない日本で、オカルトでもなんでも許容範囲の広いこの時代に読む分にはまったく気にならないだろう。 ともかく守備範囲が広いので、隅々まで楽しめる人にはぜいたくな驚きの一冊である。
by mariastella
| 2013-08-08 08:40
| 本
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