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L'art de croire             竹下節子ブログ

閑話挿入  映画『エリジウム』Elysiumを観た

Elysium『エリジウム』を観た。

暴力描写のインプットは避けると言いながらまたSF サスペンスアクション映画をなぜ観に行ったかというと、「ソシアルのテーマ」と娯楽映画の関係を考えたかったからだ。

(以下、日本ではまだ公開されていないようなので結末など知りたくない人は読まないでください)

目的がはっきりしていたので、戦闘シーンや暴力シーン、事故、手術などの怖いシーンはすべて目を閉じたり心理的に逃避を試みてバリアをはった。
だから、この映画のB級アクションのおもしろさとか、機械と合体した人間の戦闘能力とか、武器のこだわりとかを楽しもうと観に行く人とは全く別のモノを観ているわけなので、そのつもりで読んでほしい。

2154年、人類はアルマダイン社製造の宇宙ステーション「エリジウム」に移住した少数の富裕層と、スラム化した地球に残る貧困層とに二分二極化されていた。

「エリジウム」市民の安全を司る政府高官ローズ(ジョディ・フォスター)は地球から来る不法移民を拘束して強制送還する。
時には絶望した移民を乗せた宇宙船を追撃することもある。

エリジウム法でも地球人を殺してはいけないことになっているのだが、ローズは安全を守る緊急事態にはそれが適用できないという。

その強硬策に異を唱える大統領(これはパキスタン系の俳優ファラン・タヒールでWASPではない設定)に、

「あなたは子供がいないんでしょうね、子供がいないから、自分の築いてきたものを脅かす者は絶対排除するという気持ちが分からないのよ」

というようなことを言う。極右ナショナリストのル・ペンでも言いそうな台詞だ。

その他にもこの悪役のローズは、「神の愛の名において」などと平気で言う。

神も正義も家族への責任感や愛もみな「自分だけ」のものなのだ。
世界の紛争地帯で一神教の神が都合のいいように使われていることと同じだ。
「ゴッド・ブレス・エリジウム」である。

映画の終りで地上の革命軍が上陸した時、ローズはそれを本格的に殲滅しようとして、戦時には平時と違って軍事最高責任者の決定が優先すると言って、大統領を逮捕させてしまう。 今のエジプトの軍事クーデターの泥沼のことも考えてさせられる。

不法にエリジウムに侵入しようとするほとんどの人々は、ただ生き延びる希望を抱いているだけだ。

あるいはエリジウムにだけある万病を治す医療カプセルに病気の子供を入れて救いたいだけだ。
別にエリジウムの住民に危害を加えに来るわけではない。

しかも、その不法の移民宇宙船を飛ばしたりエリジウム市民の偽のID認証(これがないと治療は受けられない)を与えたりするために、仲介業者はもともと貧乏な人たちから金をとっている。

西アフリカから生死をかけてランペドゥーサ島へ渡ってくる不法移民たちも船主に金を払っているのと同じだ。

ランペドゥーサに漂着した人も強制的に隔離されるが、さすがに殺されることはない。

けれども、海の向こうの不幸や貧困を隔離しよう、見ないことにしよう、近くにこられたら困る、という先進国メンタリティはエリジウムのそれと変わらない。

不法滞在者が国内で見つかったら基本は強制送還である。

一つ不思議なことがある。

エリジウムの住民がどうみても金髪碧眼がマジョリティらしいのは分かるし、現にアメリカに存在する金持ち用の要塞都市ゲーテッド・コミュニティを拡大したものだというのも分かる。

警備員や軍隊の構成員はみなアンドロイドでできているので、少なくとも、そこで命令する側とされる側とには人種差別の構造はない。

でも、地球上でスラム化したロスアンジェルスの風景にほとんど黒人の姿がないのだ。

アメリカの人種差別のルーツだった黒人たちはどこに行ってどのような階層をつくっているのだろう。

22世紀半ばのアメリカの貧困層はひとえにヒスパニックのようなのだ。

アメリカがスペイン語とのバイリンガルになる日は近いと言われているから、みながスペイン語を話すのはさもありなんと思うし、そもそもロケ地はスペインだったそうだ。でも、黒人は?

そこで猛烈に気になるのが、監督のニール・ブロムカンプが南アフリカのヨハネスブルクで生まれ18歳でカナダに移住した白人だという事実だ。

アパルトヘイトの歴史のトラウマは大きいはずなのに、アメリカの貧困を描く時に黒人なしでいいのだろうか。

アメリカでは娯楽冒険映画でもヒーローに一人は黒人や女性を入れるなど「政治的公正」に気を使う国だが、南アフリカ出身の監督なら不問に付されるのだろうか。

それにしても、彼の第一作は『第9地区』で、ヨハネスバークの上空で指揮官を失い停止してしまって難民となったエイリアンの話である。黒人はもちろんたくさん出てくる。

地球人はこのエイリアン難民を強制隔離する。

エイリアンは文化や外見が違うので地球人から反発され差別されまくる。

彼らに比べたら黒人差別の根拠は何だったのかと思える仕組みにもなっている。

差別されているエイリアンは、もともと被支配の階層であったから野心はなく地球のスクラップで兵器やマシンを作って好物のキャットフードと交換したりしていた。

この映画も、社会風刺は批判は目的でなく純粋なエンターテインメントなのだと説明されていたのだが、地球上の差別構造を宇宙に広げたのは事実だし、『エリジウム』では地球上の貧富の拡大が宇宙規模になっているのである。

『エリジウム』は評論家たちからはあまり高い評価を受けていない。

ストーリーが貧弱で予定調和的で、人物も進行もカリカチュア的なのでメッセージ性も伝わらないしすべて中途半端だというのだ。

予定調和的というのは主人公が自己を犠牲にして地球の人々を救うというありがちな終わり方になっているからだ。

けれども、この映画での敵は大事故や天変地異でなく、宇宙人の侵略でも地球に激突する小惑星でも地下の陰謀組織でも疫病でもない。格差社会の構造そのものなのだ。

『第9地区』のエイリアンも、侵略しに来たのではない難民だった。

『エリジウム』では構造的な貧困に埋もれたままトレランス・ゼロで機械に管理されている人々と、ただ自分たちの安全を守りたいだけという富裕層がいるだけで、彼らは互いを倒したいと思っているわけではない。

今の社会でも、貧富の差が拡大したと言っても、実は、貧しい人は富裕な人の富を過小評価していて、富裕層は貧しい人の窮乏ぶりを過小評価しているのだそうだ。つまり、貧しい人には金持ちのスキャンダラスなまでの金持ちぶりがとても想像できないし、金持ちには困っている人々の真の状況が分からない。

ランペドゥーサに漂着する人の実態は想像もできないのだ。

ある意味では、その鈍感さが平和の担保になっている。

憎み合い殺し合わないことの抑止力になっているのだ。

同じように『第9地区』だの『エリジウム』だのが描き出す差別や絶望や狂気も、エンターテインメントの軽さで薄めないと商品として通用しない。

SF映画には人類が核戦争の果てに地球を滅ぼしたというような設定のようなものもいくらでもあるのだが、その後に展開するお話のディティールで売っているので、映画を観終わった後に、「やはり核のない世界を目指さなければ」などとかたく決意する人はいない。

それでも、それでも、作り手がどこかの時点でサブリミナルにでもいいから、「よりよき世界の理想」を織り込み続けてくれたら、世界は変わるのだろうか。

それとも、「自己を犠牲にしてみなを救う」というようなテーマが、キリスト教的な文化のお約束になっているだけなのだろうか。

ジョディ・フォスターの演じる軍事責任者が「裏切り者は吊るされるから」などと口走る時にはイエスを売ったユダのイメージが確実にある。「神の愛によって」の言葉と同様、21世紀半ばになっても、WASPのキリスト教イメージは健在だということなのだろうか。

この映画にはもう一つのキリスト教が出てくる。

それはヒスパニックの修道女だ。

彼女らは、どんなに地球が悲惨になっても、昔ながらの難民救済、孤児救済の仕事を黙々とやっているらしい。

で、そのシスターが、「いつかはエリジウム」に行きたい、という子供時代の主人公に、

「あなたにはきっと果たすべき使命があるわ」

などと言っている。

そのシーンが、まさに自己犠牲を決心した瞬間の主人公の脳裏をよぎるのだ。

彼は最初、自分自身の命を救いたくてエリジウムに向かおうとした。

それが、孤児時代の初恋の少女と再会して、彼女が白血病で死にかけている娘を必死で救おうとしているのを知り、彼女のために彼女の娘の命を救うという目標に変わる。

その過程で、すべての地球人を「エリジウム市民」として認識するようにエリジウムの初期設定を変えることですべての人を救うことへと使命がシフトしていく。

すべての人が神の子として平等だというキリスト教原理にたどりついたわけだ。

「あなたには使命がある」と言った時にシスターが主人公にくれた小さなメダルがある。

カトリックのシスター風だから当然聖母マリアの奇跡のメダイとか、主人公の守護聖人のメダルなのかと思ったが、それは、宇宙から撮影した「青い地球」だった。

青は聖母マリアの色でもある。21世紀の半ばには、聖母マリアのメダルは青く美しい地球のメダルになっている。

「あなたがここから来たということを忘れちゃだめよ」

幸せは要塞堅固な「ゲーテッド・コミュニティ」の中にあるのではない。

地球外からやってきた弱者を隔離する『第9 地区』であろうと、強者が地球を捨てて自らを隔離する『エリジウム』であろうと、それは「解決」ではない。

自分のもの(自分の命、自分の財産、自分の幸福…)を分かち合おうと考えるから無理が生じるので、自分のものではないもの(与えられた命、地球の自然、他者から受けた愛や恩)を分かち合おうと考えればいいのもしれない。

その思いがシスターがくれた「青い地球のメダル」にこもっているのだろう。

機械とのハイブリッドな男たちが背中から日本刀を抜いたり、サバイバルの死闘を展開したりというユーモアもあるアクションシーンの連続の後でこのようなラストに到達すると、「安易で安っぽすぎる」と感じる人も少なくないようだ。

けれども、ヴァイオレントなシーンはすべてバリアをはって見ていた私には、ラストシーンは素直な希望のメッセージに響いた。

神よ、神よと連発するような大国の商業映画がこれくらいのメッセージを付加するのは最低限の義務じゃないかと思うほどだ。

主演のマット・デイモンも、アフリカの貧困や難民を生む市民戦争のを不当性を積極的に告発している人だそうだから、この映画のもつメッセージになにがしかを寄与することを意識していたと思う。

エリジウム市民はゲーテッド・コミュニティの住民と同じく、別に悪人ではない。

金があって想像力がないだけだ。

自分の築いてきたものを安全に守りたいと思っているだけだ。

実は、その他に、この映画を見て、一番胸をつかれたシーンがある。

その地球外の楽園エリジウムの様子が最初に出てくるところ、スーツ姿のジョディ・フォスターが最初に登場するシーンに、バッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードが流れているのだ。

王侯貴族や教会というパトロンがいなければバッハはあれほどの曲を残すことは到底できなかったということ。

エリジウムという楽園を真に楽園にしているのは、美しい邸宅や庭園や高度な医療機械や安全と秩序だけではなく、バッハの無伴奏チェロ組曲なのだということ。

美しい邸宅も庭園も医療設備も安全もない場所に、バッハが流れれば、何かが変わるのだろうか、ということ。

そのようなことがずっと頭の隅に残ってしまって、振りはらえない。

別の音楽だったらよかったのに…
by mariastella | 2013-08-18 02:53 | 映画
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