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L'art de croire             竹下節子ブログ

斉藤洋二『日本経済の非合理な予測』

40数年ぶりに会った友人に著書をいただいた。

為替ディーラーやトレーダーとして生きてきた経済の専門家が友だちというのは不思議だけれど、十代の頃の友だちというのはその後何十年会っていなくてもすぐ気分は十代になる。

で、著書をいただいたので「感想を書くね」、と言い、すぐに読んだのだけれど、門外漢の私が何か言えるわけでもない。

日本をアメリカ、欧州、中国の三極の中で捕えるという視点は分かりやすいし、欧州やユーロ、ドイツについての見方が私と共通していたので何かほっとした。

思えば、1980年にまだ経済の国際統計が日本では「欧州」がくくりになっていなかった頃に、今後「欧州」のくくりで見ることがいかに重要になるかについて、一度だけ従兄の頼みで日本の経済誌に記事を書いたことがある。それは先見の明だったと思うが、フランスの原子力廃棄物リサイクルシステムについても同じ記事で書いた記憶があるので、チェルノブイリの時にすでに後悔した記憶がある。

30年経つと、世界の見方が劇的に変わる部分と、全く変わらない部分と、進化する部分がある。

この本では2050年の経済に関する予測が語られているので、その結果が私に見届けられるとは思えないけれど、それが荒唐無稽に響かないのは、これまでの30年、40年で起こったことを生き、観測し、人間性への洞察がそれなりに深まったのでこれからの世界を自分がどう「見たい」のかについてはかなりはっきりしてきているからだ。、そのヴィジョンとすり合わせて興味深く読めた。

中国については知らないことばかりだったのでとても参考になった。

この本で、一番共鳴した部分は、実は「『成長を求めない』社会」という部分だ。

その前には、日本経済の建て直しはアベノミクスの第三の矢である成長戦略の帰趨にかかっている、しかしその第三の矢が最も迫力不足だとある。規制緩和による供給構造の転換とか、「世界で勝つ」とか、成長を取り戻すのか破綻の道か、などという言葉も出てくるのだけれど、そのどれも、今のフランスの社会党政権が振り回している言葉と同じだ。私はオランドの成長戦略に反対の立場なので、この本の終りに、日本は「ものづくり国家」としての再興を図りつつ情報力を武器とした頭脳的グローバルプレイヤーの国家を目指すべきではないだろうか、と、ポスト・アベノミクスの提言があることにほっとした。

歴史に学ぶのは重要だけれど、70年代に一世を風靡したようなポスト・モダンの言説については、私はすでに、同時代的にキャッチしていたに関わらず、それが奇妙な変容を遂げていくのを把握していなかった。あたかも、もとは霊的に優れている言説がいつのまにか支配者の特権維持に便利なイデオロギーとなり、偶像化していったのに気づかないまま崇め続けている「一般信者」みたいなものだ。

ポストモダンのキイ・ワードは多様性と自由だった。

それまで「西洋キリスト教社会のスタンダード」を押し付けられていた非キリスト教文化圏の人間にとっては、文明や文化の形にヒエラルキーはない、これからは真に雑多な日本のような国の時代だ、のようにそれを応用できるのは楽しかったし、「自由」は、冷戦下の一党独占の統制経済陣営に対して自由経済や民主主義を謳歌する価値に見えたし、同時にリベラルは革新につながった。

伝統を重んじる保守主義と違って、リベラルな革新は、その元にはマルクス主義があって、すなわち、保守的な社会においてたえず搾取されている労働者だとか女性だとか社会的弱者を解放しよう(自由にしよう)という意味のリベラルだったのだ。

でも、今にして考えてみると、もうその時点からすでに言説に矛盾がある。

世界に対しては、一方的に押し付けられた西洋スタンダードから自由になって日本の独自性とかローカル文化が大事だとか言って、コミュニティの維持や価値観を再評価しながら固定しようとして、コミュニティ内部ではしっかりと従来のヒエラルキーや特権構造を守っていた。

だから実際は「社会的弱者の解放」などされなかった。西洋コンプレックスから解放されただけで中では伝統の名の元に既存の秩序が守られた。

社会的弱者にも平等に与えられた地位は、消費者というステイタスだけだ。むしろ個々の消費者として分断された分、古いコミュニティでの役割固定から解放されていない現実から多くの人が目をくらまされてきたと言ってもいい。

経済が回っていた時はその幻想が続いたけれど、夢から覚めて、何が起こっていたかというと、「リベラル」とは抑圧からの解放ではなくて、弱肉強食に都合よく経済活動や法による規制をどんどん取っ払うという倫理や社会的義務からの解放になっていた。

結果、リベラルを掲げる革新が「解放」しようとしていた労働者たちは分断されて孤立してますます搾取されてつぶされていた。

いや労働の場からすらはじき出されている人も少なくない。

もとからの力のある者(人脈とか年齢、性別、国籍など)に有利な自由競争の「自由」と、固定された搾取から弱者を解放するという意味の「自由」は今や全く乖離しているのが分かっている。

それなのにポストモダンの言説をリベラル、革新、と受け取ったまま「勝ち組」に残ったエリートたちは、フランスのような社会党政権でもまよわず規制緩和や貿易の「自由」化などによる成長戦略を遠慮なく掲げているのだ。

そこには、ポストモダンを経てすら確実に生き残った「進歩」信仰、進歩イデオロギーがある。

いや、ポストモダンは、西洋型近代価値を相対化したかっただけで(それは西洋人にとってはエキゾチシズムやスノビズムの一種でアジア人にとっては西洋コンプレックスからの解放に見えた)、その底に流れる進歩主義と経済成長志向とは一度だって途切れたことはなかったのだ。

「自由」はあらゆる既成の枠を打ち破ってより前進することを目標にしていた。

その路線は、ドゥルーズ、ガタリ、ネグリやマイケル・ハートから、ベルナール・スティーグラー、アラン・バディウまで一貫している。

そこにはテクノロジーの発展が世界の民主化に寄与しているという確信もあった。

たとえば誰でもインタネットの端末を持てば世界とつながり無限の情報を取り出せるとか、ソシアル・ネットワークで市民運動を組織できるとかいうような面だ。

それは事実なのだが、そのような発展にはそれこそ限界がなくモラルの縛りもないので、文明の利器は、必要の枠を超えてどんどん新機能を付加されてモデルチェンジをしていく。「必要」とは別のところでの市場論理や利潤至上主義が働いているからだ。

技術はどこまでも発展しているように見えるが、実は売れる技術にしか開発の予算がつかないことは誰でも知っている。

そういう方向性のあるところにだけ、どこまでもどこまでも、無限とも思える成長の挑戦がなされているのだ。

取り残される人々、取り残される分野との格差など関係がない。

でもその戦闘性がなんだか「ラディカル」な感じがするので、リベラル(規制撤廃)とリベルテール(抑圧からの解放)を混同してしまった「革新」勢力も平気で突き進むのだ。

保守政権のところはもっとひどくて、昔は革新の旗印だったリベラルを掲げることで保守世界の特権階級の特権を維持するための秩序を強化しながら、昔ながらの「保守VS革新」「改革VS革命」などの対立を無効化して権力は安泰だと思っている。

今や、経済は、経済だけではなく、経済と文化と政治の複合した事象なのだ。

政治やイデオロギーの革新とか急進は、「成長」とか「進歩」という前進の枠にとらわれていては、複合した全体を変革することはできない。ほんとうのラディカルとは、今の不都合の原因を政治と文化と経済の根元の部分にまでさかのぼって吟味して、それらの動きを誘導する光の方向性を変えるところにしかない。

確かにソシアル・ネットワークなどのおかげで中東など規制の厳しい社会においてさえ人々が新しい自由と新しいつながりを持つことができるのはこれからも大きな可能性を与えてくれる。

けれども、すでに表向きの表現の自由が許されているような国で、デジタル・ネットワークだけで繋がる人々からは、「生身(なまみ)」が希薄になっていく。

その「実体のなさ」は、大量消費社会の刹那主義や量産主義とも呼応して、「絆」も「連帯」も、量があっても質があるのかどうか、もはや分からない。

個人の自由と、物質的条件の平等と、ユニヴァーサルな集合的自律を共に志向できるような内実のある人生観(そう、いくら無限の成長だの進化を語っても、人間の有限性は変わらない)の構築こそが今もっとも大切なことだ。

それを目指す言説もあちこちに存在するのだけれど、マーケット戦略が伴わない限り声は遠くには届かない。

私たちは耳をすます必要がある。

そのためにも、経済学や経済予測というものは、私たちの置かれた立場の来し方行く末を考える有効な物差しになるものだとつくづく思う。
by mariastella | 2013-12-31 23:48 |
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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