ベネディクト15世はドイツ軍の蛮行を黙って見ていたわけではなかった。
ドイツとは公式の外交関係を残していたので、それを通じて直接に何度も非難していた。
しかし公の場でフランス軍に味方するとかドイツを敵だとか言ったわけではない。
フランスの『ル・タン』紙は、
「教皇の中立はカトリック教会の敗北だ」
と言い切った。
1915年6月に教皇がインタビューに答えてドイツ軍の戦争犯罪を軽く見たということで怒りはさらに膨れ上がった。教皇庁はその記事を否定した。
フランスのメディアは教皇を「Pape Boche」(ドイツ野郎の教皇)と呼び、ドイツ軍による殺戮を笑って指揮しているかのようなカリカチュアが誌面を飾った。
カトリックの論客であるレオン・ブロワも教皇を「確実に間違う」(教皇の「無謬性」にかけている)「ピラト15世」(ピラトはイエスの処刑を決めたローマ総督)と呼んだ。
教皇を弁護する少数の者の言い分は、「教皇は判事の立場から弁護士の立場に降りてくることはできない」という程度のものだった。
教皇は何度も停戦を呼びかけたがドイツもフランスも停戦など考えてもいなかった。
1917年8月、教皇による停戦の呼び掛けは、フランスの聖職者たちから正式に拒絶された。
12月、ドミニコ会の有名な説教師セルティランジュは公の席で平和への呼びかけを受け入れられないことを教皇に宣言した。
霊的なことでは教皇の命に従うが、世俗のことは聞けない、不正と野蛮を前にした戦いの中でフランスに利をもたらすように一人一人が自由に解釈すべきだ、と述べる司教もいた。
実際のところは、ベネディクト15世は、ドイツびいきではなくむしろフランスびいきだったという。
教皇の判断の誤りは、この戦争でフランスに勝ち目はないとみたことだ。
彼はフランスが踏みにじられるのを見ていられなかった。早いうちに停戦に持ち込むことでフランスの被害を少しでも軽くしようと考えていたのである。
このような状況からはっきり見えてきたのは、
近代「戦争」においても人は「神が味方につく」のを求めること、
そしてそれがかなえられなければ宗派の長を平気で裏切り者呼ばわりもするし、命令には従わないこと、
世俗の問題は霊的な問題に優先すること、
国境のない普遍宗教のお題目よりも「自分の国」が第一になること、などだった。
それはそのまま、その前に国内にあった「カトリック対教権主義」だの「ライシテ」というイデオロギーだのの緊張や反目や議論をすべて無化するほどの狂騒であった。
彼らは「フランスの正義」のために身を犠牲にして戦っていると思っていたが、同時に、正義や理念のバランスがいかにはかないもので普遍主義の理想がいかに簡単に投げ捨てられるかを身をもって知らざるを得なかったのである。(続く)