(これは「
ヨーロッパの20世紀は75年しかなかった その6」の続きです)
第一次大戦によってフランスにおける死者への「喪」の服し方が劇的に変わったことについては後述しよう。
しかし簡単に言っておくと民間のレベルで「煉獄」が消滅した。
戦争での苦しみと犠牲によって戦死者はすでに「贖罪」を果たして天国へ直行、みな聖人となったのだ。
これはある意味では日本の戦死者の「英霊」がみな「祭神」に昇格したことと同じ感性かもしれない。
そうなのだ、戦争や大災害による大量の犠牲者を前にした時、人は「犠牲者」をまとめて祭ってしまいたいのだ。それによって、「死者の恨みや苦しみ」とそれが生存者に罪悪感を与えたりする畏れと恐れを回避するために、「慰霊」し、ひいては生存者を「守護してもらおう」という都合のいい感性でもある。多くの「神々」や「聖人」たちはこうして祭られてきた。
フランスの場合興味深いのは、第一次大戦で、アラブ・アフリカの植民地国からも志願兵を募り、軍需工場の働き手としても移民を奨励したことだ。そのほとんどはアルジェリア、モロッコ、チュニジアにセネガルなどのムスリムだった(アルジェリアはフランスの「県」あつかいなのでそもそも徴兵された)。
この時、政教分離で激しくカトリック教会を排斥していたフランスがカトリックの神や聖人を必要とし、一丸となったように、フランスのために戦うムスリムの宗教性も、もちろんまるごと受け入れられた。
イゼールの戦いに送られた植民地軍の駐屯地には兵士たちのために仮のモスクが建てられ、日に五度のメッカに向けての祈りが軍隊ごと許可された。
第一次大戦で宗主国フランスのために「動員」(「同じ血を流せば同じ権利を」と約束された)されたイスラム教徒は60万人と言われていて、そのうち5万5千人が戦死した。10%に近い。
そして、戦後、これらのイスラム教徒の戦死者を祭るために建てられたのがパリ市内の大モスクであり、そこにすべての戦死者の名が刻まれた。今でも大統領が訪れて謝意を表する。
あのイデオロギッシュな政教分離だの、公共の場での宗教シンボル着用禁止だのというフランスにして、これである。
日本の場合、植民地における宗教がどうなっていたのかよく分からない。国家神道が強制されたのは想像できるが、もともと一神教的素地のない場所だし、兵士たちは皆平等に現人神である「天皇陛下の赤子」と見なされていたのだろうか。
『植民地朝鮮と宗教 帝国史・国家神道・固有信仰』三元社
[編著者]磯前順一+尹海東
という本を見つけたけれど未読なのでよく分からない。
フランスでは「フランス」という国家は「無宗教」であり、しかし内部にある宗教に優越・優先するとされていた。20世紀の初めにはそれはカトリック教会の既得権益の排除と同義だったわけだが、原則としてはすべての宗教が、「公共の地位を与えられない」という意味で「平等」だった。
だから、戦争によって「神」だの「聖人」だの「喪の儀式」だの、ありとあらゆる「聖なるもの」が「ナショナリズム」のもとに呼び返され、結集した時は、もちろんイスラム教もOKだったわけである。
日本のように「国家」の基盤に「国家神道」を組み込んで「近代国家」の仲間入りした国が戦争をする時に、植民地を巻き込んで生と死、「犠牲」と「聖なるもの」をマネージメントする場合は、別のロジックであったろうことは大いに想像できる。
ともかく、フランスは、第一次大戦の現実によって、
「人は実存の危機においては宗教共同体を必要とする」こと、
「ナショナリズムの沸騰する時には、多様な共同体をプライヴェートな部分に押し込んで掲げていた普遍主義の理念などふっとんでしまう」
というこの二点を、決定的に自覚してしまったのだ。
それを思うとき、「アメリカのプラグマティズムに対してフランスが理想主義的でヨーロッパ中心の独善主義だ」などというお決まりの対比などが、実は、深いところで逆転していることが見えてくる。
(続く)