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L'art de croire             竹下節子ブログ

ラモーのコメディ・リリック『プラテーPlatée』を観る

オペラ・コミックにラモーのコメディ・リリック『プラテーPlatée』

を観に行った。

プラテーは前世紀の終わりにパリのオペラ座でミンコフスキーが指揮した時に観た、私にとってほぼ初めてに近い本格的なオペラ・ヴァージョンのラモー作品だった。その数年前に『Castor et Pollux』を観ていたが、ラモーを心から「おもしろい」と思ったのはプラテーが初めてだったと思う。

演出も気に入った。Folieがドレスに貼りつけられた楽譜をはがしていく様子は強烈だった。今はネットの動画でも見られる。ダンスの振付にはその時もがっかりした。

ラモーがイタリア音楽とフランス音楽についていかに自在に語って見せることができるかの証明みたいなシーンである。

思えばこのオペラは、1745年、当時まだ16歳だったルイ15世の皇太子とスペイン王家のマリア・テレサとの結婚の祝宴の最終日にヴェルサイユで発表されたものだ。

し前の記事で書いたように、この2年後に皇太子の再婚の祝宴のために『イーメンとアムールの宴』が上演されている。
皇太子の従姉妹に当たるスペイン王女が新婚の翌年に急逝したからだ。

しかもこのマリア・テレサは「醜さ」で評判が高かったから、ラモーのプラテー(男性によって演じられる。セクハラ、嘲笑される蛙の化身のような役どころだ)は、それを意識して創られたのだろうなどと言われている。

マリア・テレサの実際の肖像写真を見ると、どこが「醜い」のか分からない。やせぎすの感じなので、その後の皇太子妃らのようにぽっちゃり美人ではないので、中性的な雰囲気が当時の美人の基準に合わなかったのかもしれない。

マリア・テレサの醜さを揶揄した形になったラモーも多少は罪悪感を持ったかもしれない。で、2年後の再婚の祝宴ではエジプトを舞台の悲劇仕立てのオペラバレーにしたのかもしれない。

それにしても『プラテー』を聴くとラモーのエンターテイナ―としての腕にも感心する。

しかし今回は、クリスティが指揮するはずだったのが健康上の理由で前回プラテー役を歌ったPaul Agnewに変わった。演出はカナダのロバート・カーセンで、舞台をオート・クチュールの社交界に設定、ジュピターはカール・ラガフィールドがモデルということで、前回の動物だらけのラ・フォンテーヌ風「異界」の雰囲気とは正反対だ。

このカール・ラガーフェルドのコスプレで出てくるジュピターが、なんと本物の真っ白な大きな猫を抱えている。

彼の有名なシューペットである。この猫については前に記事を書いたことがある。

まさかシューペットちゃんではないだろうが、ぬいぐるみでない本物の猫なのだ。

ラガーフェルドにちなんでシャネルのロゴもたくさん出てくる。

演出のロバート・カーセンは、ジュピターやジュノンというギリシャ神話の世界と、バロック時代の音楽を素材にして、ポストモダンの脱構築で現代のセレブ消費社会の風刺を試みたと言っている。

でも、神話の世界でもなく、ラ・フォンテーヌ風の寓話世界でもなく、リアルすぎて、気分が悪くなった。

別に、「現代仕立てがよくない」と言っているのではない。

この設定のプラテーは、単に、まったく女性的魅力のないいかつい「イタイ醜女」であり、セレブの権力者デザイナーにいたぶられる設定だ。しかもこのデザイナー役の歌手がハンサムでスリムで、プラテーの「女として失格」(男の歌手が演じている)の姿といかにも「釣り合わない」。

それなのにプラテーはみなの策略にだまされて、衆人の前で恥をかかされ、最後は裸に近い恰好で放り出されて、命を絶つ。

これって壮大ないじめとその犠牲者の自殺というストーリーだ。

それを「風刺」とよぶのも、大人の間では別にいい。

ところが、この『プラテー』は、先週、『子供のためのプラテー』という50分の圧縮版も上演されている。それに参加した家族かもしれないが、最終日の日曜のマチネーには、7-10歳くらいの子供連れの客が目立っていた。

普通の「バロック・オペラ」上映ではまず見られない光景である。

もちろんコメディなので、舞台からも笑い声が聞こえたり、観客も笑ったりするシーンがあるにはある。

でも、バロックの歌は聞き取りにくいし字幕も子供は読みづらいだろうから完全には理解できないので退屈もしたようで、私のすぐ後ろの列にいた二人の子供たちも途中で小声でしゃべったりしていた。

それも不愉快だったけれど、まあ、オペラ・コミックに子供連れでラモーのオペラを観に来るというのもパリ以外では考えられないだろうな、ラモーは意外にコメディ好きで、本当にオフェンバックの「美しきエレーヌ」とかを観ているような錯覚も起きるし、と寛容にもなっていた。

けれども、明らかに「子供もOK」というコンセプトにしては、生々しいステレオタイプのいじめの話になっているのはショッキングだ。

そして、ジュピターとプラテーがベッドインするまで、延々とエロティックで猥雑でアクロバティックで倒錯的なダンスが続く。男と女の絡み、男と男、女と女、女の下着をつけた男らが、性的なしぐさをする。

子どもに対してもどうかと思うが、それらのダンスというかパフォーマンスが、当然だが、シャコンヌやリゴドンと共に展開されるわけだ。

私が言いたいのは「そこでは本物のバロック・バレーを振付けるべきだ」というようなことではない。

あの挑発的でインパクトのある振付のせいで、音楽がビジュアルによって肉体性を奪われていたということだ。

ラモーのダンス曲は優れて身体的なので、あれをバックに踊っているダンサーたちはさぞやぞくぞくしただろう。しかし観ている方にはその身体的ぞくぞく感は伝わらない。ビジュアルな刺激ばかり突出するからだ。

これについて書くにはバロック音楽のダンス曲と身体性について最近考えたことを説明する必要がある。(実はもう以前にブログにアップしていたと思っていたのにまだワードに入っていたのであわててコピーする。長くなって失礼。しかも前半は今の話題と直接の関係がないので後半に注目)

それはルネサンスの詩と音楽の関係についてだ。

前半

これまで散々フランス史の音韻理論について読んだり聞いたりしてきたが、最近になって目からうろこが落ちたように把握できるようになった。
それまで、解説された時はなるほどだと思うのだが実感がなかった。心の底のどこかでは、私の周りにいるフランス人の理系の連中や音楽家やエコノミストたちも私とたいして変わらないに違いない、そういうのに敏感なのは16世紀や17世紀文学の専門家だけだろうと高をくくっていたかもしれない。ところが先日のルネサンスの詩と音楽の学会の発表ではじめてよくわかった。
しかも、これまで何となく、アレクサンドランなどのせいで、ギリシャ語の音韻の影響なのかなあと思っていたさまざまな「決まり」が、ほとんどロンサール一人がリュートをいちいち弾きながら詩作して創り上げたものだったとは…。
1650年以降の100年を視野に入れるフランス・バロック頭では、フランスのバロック・オペラとは、

ルイ14世にフランス・オペラを創れと命じられたリュリーがコメディ・フランセーズに通い詰めてその朗誦を研究し尽くしてそれに節をつけた、という「語り物」と、

騎士の鍛錬であった剣術馬術とダンスのうちのダンスの支えとなるリズム音楽との融合、

という構造が頭にあった。

ところが、ロンサールが最初から「歌う」ことを想定して詩作をしていて、フランス語というのはそもそもその中で完成したのだ。

特に音楽と「悲劇」は切っても切れなかった。

フランス語の詩と音楽が互いに独立したのは18世紀のことだという。

16世紀のPierre Gringore の作品の例では、退屈している若い娘のところに音楽を奏でるキュピドンが現れるのだが、そこでは愛は歌となる。

リフレインとクプレが交互に出てくるロンド形式が潤沢に使われる。

ロンドのリフレインとは、appât なんだそうだ。つまり、撒餌。キャッチ・コピー。ここで鳥を呼ぶ。しばしばコーラスで歌われて、愛の思い出を喚起する。
そして挿入されるクプレが、「語り」の部分なのだ。

バロックのダンス曲にもロンドがとても多い。そうか、リフレインが客寄せで、クプレが「語り」なんだ。歌のない純器楽曲でもその本質は変わっていない。

なるほどと思った。

で、若い娘の夢が覚めて現実に戻る部分ではメロディが消えて散文的で単調になる。

その単調さが現実の「秩序」を表現しているのだそうだ。愛は高まると自然と音楽になる。

思い出はシンフォニーとなり、絶望はカコフォニーになるなど、不協和も愛の音楽、愛の営みの表現となる。

後半

もう一つの発表はまた別の意味ではっとさせられた。

Olivier Halévyによる1520-1550年の歌の中に使われるTralalas と言われるオノマトペの要素を分析したものだった。それがリフレインに使われる場合もあるし、語りの部分につかわれる場合、その混合がある。
トラン、タン、テール(Tran tan tère ) のようなリズムの音、 ブドゥドゥ、ブドゥドゥ(bededou bededou)のような悪魔の太鼓の音、ミレラ、ミレラリドン(mirela,mirelaridon)のようなドレミの音名らしいもの、などがある。

そしてどうやらそれは、ダンスのステップを促したらしい。

意味のある言葉のテキストが中断されて、「音」の連なりだけになる時、「言語」というシンボリックな世界が消えて、音は「受肉」incarnerするという。「肉体」のない抽象的な言語世界から、体の占める空間や重力との拮抗が出現する。

その通過点、境界領域が、「意味のないことば」Tralalasであり、それはその直前の言葉から一部をもぎ取って意味を消して音を反響させたり増幅したりしたもので、官能的でドラマティックな機能を果たす。

パロルが消えると「体」が現れる。

そして踊りが現れるのだ。

体とは動き、踊る体である。

この感覚。

この感覚は実は、バロック・オペラやオペラ・バレエにおけるレシタティフとダンス曲の関係にそのまま受け継がれている。

現代のバロック・オペラの指揮者たちが、振付譜の残っていないバロック・オペラを演奏する時、歌のある部分は思い入れたっぷりに「濃く」構成するのに、「語り」が中断して「挿入」されるダンス曲の部分を、さっさとあっさりと、受肉どころか「語り」の部分よりもすかすかにとばしてしまうことがあるのは明らかに間違っているのがよく分かる。

まるで、「語り」の歌やコーラスで歌手の「肉体」が現前するのに、その歌手が声を出すのをやめたら、無機的で抽象的な音楽だけ残るかのように弾かれるのだ。

実は、その逆で、声のテキストが途絶えた瞬間、楽器たちがその「声」の意味を「無意味」に変換させて、楽器を受肉させ、ダンスを出現させるのである。

で、今回の『プラテー』に戻る。

ラモーの『プラテー』はまさに、オノマトペやTralalasが充満している。

そしてそれがダンス曲へと展開しているのだ。音楽が「受肉」する瞬間だ。

そこでダンサーの体が表現するのはまさにその音楽が喚起する身体性である。
ラモーのそれはフレージング、アーティキュレーション、装飾音と和声進行の複雑な構造によって、聞いているだけで関節や内臓を揺さぶるほどに身体的なのだ。

ところが、今回の『プラテー』のように、そのダンスの身体性というのが上述したようにひたすら「エロティックで猥雑でアクロバティックで倒錯的なダンス」というビジュアルを通してしまうので逆説的に「身体性」はなくなる。まさに「見世物」になるのだ。

ダンス曲を物語の「つなぎ」のようにあっさりととばしてしまうエルヴェ・ニッケについて先日書いた

バレエに入る時も、バレエが終わる時も、のっぺりとひとつながりで、踊り手の登場やステップをまったく感じさせないで「さっさとすませる」という感じの演奏で音色の工夫もなければ、長調と短調が交互に来るメヌエットやパスピエやコントルダンスやシャコンヌの内部の変化にまったく配慮がないと書いた。

クリスティのレ・ザール・フロリサン(Les arts Florissants)の演奏はさすがに筋が通っている。

充分濃く厚みがあって、身体性を楽しめるようになっているのに、ビジュアルが強烈過ぎて邪魔だ。

しかも、そのビジュアルがしつこく単調で、曲の陰影を消してしまう。ラモーのもつ複雑精妙なエレガンスとはまるで逆だ。

こんなことならコンサート・ヴァージョンの方がましだ。

今回のプログラムに1752年にルソーが書いたプラテーの音楽評が転載されていたのが改めて興味深く読めた。ルソーもラモーの技術の卓越は認めざるを得ないのだが、「天才」ではなく「名人」であり、やり過ぎだ、過剰だと言い立てている。

長くなったのでこの辺で。
by mariastella | 2014-03-31 08:55 | 音楽
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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