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L'art de croire             竹下節子ブログ

フランスの黒人と混血児の系譜

日韓の確執やロシアとウクライナの問題を見ると、あらためて、仏独は二度の大戦後によく仲直りしてヨーロッパを築いたなあ、と感心する。

そしてルーツ的にはフランスよりゲルマンと近い(そのせいでイギリス王室は名前まで変えた)英米がよく積極的に大陸に出張って、ベルギーなどドイツ国境付近で凄惨な戦争に参加したものだなあと思う。

ドイツと戦うために英米やカナダから多くの兵士がフランスに入ってきたわけだが、実は彼らよりもフランス人だけがそのラテンっぽい柔らかさと単純な普遍主義の理想に裏打ちされた天然の「人生大好き」人間だったので、戦争でそれが打ち砕かれたショック英米よりも大きかったようだ。

「英米」とフランスの関係も戦争によってよりよく見えてくるものがある。

英仏は長らくの宿敵同士だったから、対ドイツでフランスと同盟しているといっても、事実上の戦場は大陸なのだから、英軍が大挙して一方的にフランスにやってきているわけだ。

味方だとはいえ、フランス人にしてはあまりおもしろくない。

アメリカはウィルソンが当時600万人いたドイツ系アメリカ人に「中立を守る」と公約して当選したこともあって、第一次大戦になかなか係わらなかった。

1917年になってドイツがメキシコを煽動し、味方すれば勝った時にはアリゾナとテキサスをメキシコに割譲と言っていたことが(真実かどうかわからないが)暴露されたということで、アメリカの参戦モティヴェーションが急遽上がった。第二次大戦における真珠湾みたいなものだ。

で、ようやくフランスにやってきた米軍の将軍は、真っ先にラファイエットの墓に表敬訪問する。

これはもちろん対英の独立戦争でフランスのラファイエットがアメリカで戦ってくれたことの感謝である。

この時点でそんなことをするのはイギリスに対しても何か微妙な気もするが…

ともかくフランス人は米軍をアンクル・サム由来の呼称「サミー」といって歓迎し、彼らが英軍に借りた軍服や帽子をつけていてもイギリス人と違って「クールでにこにこしているからすぐわかる」と言っていた。

でも、アメリカ人の方は、イギリス人と同じようにフランス人のことを「フロッギー(蛙喰い)」と呼んでいた。

フランス軍は非常事態だからアフリカの植民地からも志願兵を集め、救国のために「平等」に扱ったし、自国の軍に組み入れていたから、米軍も指揮下に入れようとした。

米軍は拒絶した。

友軍、同盟軍ではあるけれどフランスの指揮下に入るなんて考えられない。

しかし・・・「黒人兵ならOK」ということになった。

こうして当時しっかりと二級国民として差別されていたアメリカの黒人部隊がフランス軍に組み入れられた。

でも、フランス軍はアメリカの黒人部隊を前線には送らなかったという。

そのかわり、野戦病院や傷病兵施設などでジャズを演奏して兵士たちを慰めていた黒人たちの記録フィルムが今も残っている。

この時のフランスとジャズの出会いは決定的な刻印を残した。
それまでのフランスには黒人が少なかった。

第一次大戦の後には一種の「黒人ブーム」が起きた。

それがのちに1937年にフランス国籍を取得する大スターとなったジョゼフィン・ベーカーの人気に現れている。

ベーカーは厳密にいうとアメリカ黒人とアメリカ・インディアンの混血だった。(追記父がユダヤ系スペイン人という説、母が黒人とインディアンの混血などと諸説ある。では黒人としてはクォーターとなるが、白人社会の基準では「黒人」だ。)

彼女は故国の人種差別と闘ったが、黒人とはまず「歌って踊れるアーティスト」と見なされていたフランスで生きることを決意した(その彼女が世界中から異民族の孤児を集めて養子にしてユートピアを作ろうとしたのはまた別の話だ)。

ここで私の頭に浮かぶのはこの第一次大戦に獣医として参戦した若きラファエル・エリゼのことだ。

彼はカリブ海の仏領(今は海外県)出身で曾祖母が黒人奴隷(曾祖母が33歳の時に奴隷制が廃止され市民となり、曾祖母の名であるエリゼを姓としたのだった。

火山の爆発で町が壊滅したのでフランス本土に出てきた。

共和国の平等主義、教育社会主義の恩恵を受けて高学歴者となる。牛馬が重要なフランスにおいて獣医のステイタスは今も高い。だからメティス(混血者)であるエリゼも基本的には「差別」を受けていない。第一次大戦では馬の役割は大きかったので、一兵士として徴集されたが獣医として戦功勲章も受けた。

復員して、サルト県に獣医がいないのを知って赴任する。牛馬は貴重な財産であるから人々はエリゼを歓迎し尊敬した。社会党の政治家となり、サルト県のサブレ市の市長となり、この地方で初の市民プールを作ったり教育施設も充実させた。フランス初のメティスの市長であった。いろいろな意味で優れた人物で改革者であり、市政にも尽くし、人々は彼のことをエリゼ市長と思っていただけで「黒人」とは考えていなかった。当時の「黒人」は「歌って踊るカリスマエンターテイナー」という新しいイメージと昔からの「野蛮人、人喰い人種」などの偏見に二極化していたのだが、エリゼに接する市民は彼をそのどちらとも意識していなかった。

彼の妻もメティスだったので、子供や親族にはいろいろなタイプの人がいる。
(彼の一人娘は17歳で病死した)

第二次大戦の時に、1940年、ドイツ軍によって市長の職から追われた。

理由はもちろん「黒人」だからだ。

ドイツ軍は「占領地域に黒人の市長など考えられない。話すこともできない」とペタン元帥に書いた。
ドイツ語に堪能なエリゼが自らそれを翻訳してヴィシィのペタン元帥に送った。

エリゼの作った市民プールも白人以外の利用が禁止された。

これはオバマでもそうだが、白人とのハーフであればフランスでは「黒人」とは呼ばれずにメティスとかミュラートルなどと呼ばれるのに、差別主義イデオロギーの国のもとでは「混血」そのものが罪みたいなものだから、混血者は即社会的下位のクラスに入れられていた。何代も前に1人黒人の血が入っていて見かけはほとんど白人と変わらなくても「黒人」とされていた時代もある。

ここで少し別の話をする。

17,18世紀フランス本土では黒人奴隷が禁じられていた。

それは、黒人の人権をリスペクトというより、混血が避けられないリスクを減らしたんじゃないかとも思う。奴隷労働の担い手は白人で足りていたわけだし。

それでも混血児は存在していて、有名なのはルイ14世から年金を受けていた修道女「モレのモール女」(モレ・シュル・ロワンの修道院に入ったからだ。修道女名は.ルイーズ=マリー=テレーズ)だ。

モール人というのは「マクベス」もそうだが、最初はアラブ人や北アフリカのベルベル人を指す言葉だったが、肌の色が暗めでエキゾティックな者は皆まとめてモールとかモレスクとか呼ばれるようになっていた。その意味で混血児は立派な「モール人」に組み入れられたのかもしれない。

本土で禁じられていた国人奴隷も宮廷にだけはいた。

エキゾティックな存在は珍しい動物と同様フランスの帝国主義の到達シンボルだったからだ。だから、労役を課せられる奴隷というより愛玩動物やマスコット的な存在だった。「道化」などとも似たスタンスだ。

この混血女性はルイ14世と黒人の女奴隷の娘というより、ルイ14世の王妃マリー=テレーズと、黒人で小人の小姓ナボ(アフリカのベナン出身)との間に生まれた子供だとも言われている。

表向きはそのような「不倫」はあり得ないので、王妃が黒い子を産んだのはルイ14世の子供が胎内にいる時に「黒人の視線」によって色づいたという説明がされたという話もある。

1664年に生まれた王女で10日後に死んだとされるマリー=アンヌではないかという説だ。

どちらにしてもこの子供は、死んだことにされて抹殺されたり捨てられたり奴隷にされたりはしなかった。
生涯の年金を受け取って修道女になったというところがフランス的だと言えるかもしれない。

フランス革命前の有名な混血児としては他に、植民地グアダルーペの地主と黒人女奴隷の間に生まれた音楽家、作曲者のシュヴァリエ・ド・サン・ジョルジュChevalier de Saint-George Chevalier de Saint-Georgeがいる。

革命後で有名なのはなんといってもアレクサンドル・デュマ父子だろう(父は『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』、息子は『椿姫』などフランス文学史上に輝く作品を残した)。

デュマ(父)の父親が植民地サン・ドミンゴの女奴隷との混血で、革命軍の最初の混血の将軍として活躍し、デュマ(子)はフランス本土で生まれている。

パリに出てから、隣人の白人のお針子との間に私生児デュマ(子)をもうけるが、後に認知した。他にも別々の女性と複数の私生児をもうけたと言われる。非常に魅力的な男だったようだ。

それでももちろん人種差別的揶揄はされたらしくて、

「あなたは混血だからニグロのことも詳しいでしょう」

と聞かれた時に

「もちろんですとも。私の父親は混血で、祖父は黒人で曾祖父はサルだったんです。お分かりですか、うちの家系はあなたの家系が到達したところから始まっているんですよ」

と答えたというエピソードが残っている。

デュマの息子の方は外見はほとんど白人のように見える。

どちらにしても、彼らの残した文学作品に「フランスの黒人文学」などという形容がつくことはない(こういう時に思い出すのは若い時に「ボールドウィンの黒人文学」などという形容の小説を読んだ時の感じの片鱗も『モンテ・クリスト伯』を読んだ時には感じなかったことだ)。

さて、フランス初のメティスの市長ラファエル・エリゼのことにに話を戻そう。

革命後のフランスの「市長」というのは革命前の教区司祭に代わるもので、まさに「共和国」教の聖職者のような大切なポストである。

ドイツによって市長職を追われたラファエル・エリゼはもちろん地下に潜ってレジスタンス運動に身を投じるのだが逮捕され、強制収容所に送られた。そこでもレジスタンスの仲間のために手書きの「文化雑誌」を編集して回し読みをしていたらしい。サバイバルに必要なのは「文化」であるとして音楽(クラシック音楽ファンだった)記事を書いたりした。

皮肉なことに、収容所から囚人たちを「解放」に来たはずの米軍の爆撃によって命を失った。54歳だった。

アメリカの爆撃機は高度を上げてかなりアバウトに爆撃した。フランスでもフランスの市民の多くが米軍の空爆によって死んでいる。

歴史の中でこう民族だの国民だの敵味方が錯綜していたら、外交に必要なのはやはり、ある程度の忘却というか赦しなんだろうなと思う。

フランスにやってきた米軍は「正義と名誉」を掲げていたが、フランスは革命以来の「自由・平等・博愛(友愛、兄弟愛)」だった。

これは何かというと、個人の自由が実現する真の平和(圧政独裁によって秩序が維持されているという平和ではない)を築くには「平等という正義」が必要で、しかしその「正義」は「友愛」なしには真の「平和」に至る道とはならないということだ。

「友愛」の創成と保持の努力に裏打ちされない「正義」の執行は、「平和」をもたらさない。

自由・平等・友愛は並列するのでなく、序列があるという考え方だ。

これは9.11の翌年にローマ教皇ヨハネ=パウロ2世が口にした「平和・正義・赦し」の順序と通底する。
正義なしの平和はなく、赦しなしの正義はない。

悪の枢軸に十字軍を送って鉄槌を下せ、式の当時のブッシュ大統領は、まだ「正義と名誉」だけだったのだろう。

どんなささやかな赦しだって難しい。

それが本当の正義や平和に到達することの難しさなのだろう。

赦しなしの正義や、正義なしの平和は実は別ものであり、平和や正義から赦しが自然に生まれることもめったにない。

二度の大戦であれだけいろいろあったのに、一応、なあなあで「赦し」あって少なくともEUの平和を築いた独仏は、廃墟の中から何としてでも「ほんとうの平和」をほしかったんだろうなと思う。

(何度かに分けてもよかったのにまた長文で失礼。最後まで読んだ方はお疲れ様でした。このブログは「読んでいただくために分かりやすく書いているもの」ではなく、「決まった読者を想定せずに制限なく書いているもの」なのであしからず)
by mariastella | 2014-04-02 07:42 | フランス
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