一番最近観に行ったフランス映画は、ピエール・サルヴァドリの『Dans la Cour(中庭)』だ。
40代でミュージシャンの生活を捨ててアパートの管理人になった男(ギュスタ―ヴ・ケルヴェルン)とサロンの壁に入ったヒビを見て建物の崩壊の恐怖にとらわれる定年退職したばかりの女性(カトリーヌ・ドヌーヴ)の不思議な安らぎの求め合いを描いたものだが、パリのゴンクールのあたりの古い建物が舞台であるので、あまりにもリアル。
集合住宅の中庭に面した建物に集う人々の孤独や病や妄想もリアル。
主演の二人は素晴らしいし脇役陣もいい。
『愛、アムール』のようなブルジョワの立派なアバルトマンに住んでいてさえ人は病気や老いや孤独の中で闇に足をすくわれてどこまでも沈んでいく。
そこにドラッグやら貧しさやら、過去のさまざまな挫折感やらが加わって複雑にからんでいるとしたら、それが一種のユーモアを生むか、心を切り裂く痛みを生むか、生に向かうか死に向かうか、本当に紙一重だ。
カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』を思い出した。その映画化の『愛すれど心さびしく』(1968)のことも。
この映画では、集合住宅の管理人が、言葉を話せない男のように人々の不幸や生き難さをいつの間にか少しずつ分け持ってしまう。
その彼の生き難さには誰も気づかない。
ここでは、彼を失った後でカトリーヌ・ドヌーヴ演じるマチルドが、それにやっと気づき、人は他者を助けることでしか生きていけないことを悟って立ち直る様子が描かれているので少し救いがある。
でも、言い換えれば誰かが本当に救われるのには別の誰かが犠牲にならなければならない、ということにもなり、よりやりきれない気もするのだけれど。
この映画には絶望もヴァイオレンスもあるけれど、いわゆる「悪」や「悪人」は出てこない。
人は、不都合な症状に診断名がついて初めて状況を受け入れて、前向きに対処しよう、解決しようと道が開けることがある。
でも「悪」や「悪人」などというわかりやすい対象がはっきり見えてこない混沌の中の絶望はひたすら人を分断して深淵の前に追いやるのだ。ひょっとして悪は善の触媒なのかもしれない。