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L'art de croire             竹下節子ブログ

吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』(アルテスパブリッシング)

比較文化の社会学をこういう切り口で分析してみるなど考えたこともなかったので、非常に新鮮だった。

当事者を含めて皆が薄々感じていながらもあえて意識に上らせないような微妙な覗き見感もある。
はっきり言って、この研究をWASPの男性社会学者が企てたなら逆に偏見を持って見られそうだ。

NY生まれ東京育ちでピアノを本格的に勉強してアメリカで文化批評のスペシャリストとなった著者でないと分け入ることのできなかった世界かもしれない。

私自身、著者が取り上げるアジア人女性でありフランスの音楽師範学校に通ったこともあり、複数のアンサンブルでいろいろなところで演奏する活動をもう30年も続けていて、生徒に個人レッスンをするのもかれこれ30年近く、またアーティストを支援するアソシエーションを立ち上げてパリに来るさまざまな音楽家に演奏の機会を提供するようになってからも20年経つ。二軒長屋の自宅の片側には日本人女性のピアニスト、フルーティスト、サクソフォニストらに住んでもらって自由に練習してもらってきた。その間、日本からの音楽留学生の直面するいろいろな問題や進路の変更を含めて、さまざまなことを見てきた。

それなのに、それらの経験をこの本の著者のような形で考察して言語化するということは、ありそうでなかった。

なるほどと思える興味深いフィールドワークがたっぷり報告されている。

けれども、これを読んで個人的にあらためて気づかされたのは、

1. アメリカとヨーロッパってまったく違うなあ、

2. ヨーロッパの中でもフランスってまったくユニークだなあ、

3. クラシック音楽界とバロック音楽界のメンタリティはまったく違うなあ、

の3点だった。

2 と3は、『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)に書いたことを追認した形でもある。

一つだけ、この本を読んでから、今までの感じ方が180度変わったことがある。フランスの音楽教育の評価についてだ。

これまでは、フランスの幼稚園はもちろん小学校に音楽の時間がないせいで、音楽の教養のまったくない多くの大人を生むので嘆かわしいとずっと思っていた。

私のところに来る大人の生徒も、子供のころから楽器演奏にあこがれていたのにその機会がなくコンプレックスを持ち続けたという人が多い。

その点日本では、今のことは知らないが、私の育った時期には、幼稚園のどのクラスにもオルガンがあって休み時間には自由にさわれたので全員が「猫ふんじゃった」が弾けたし、小中学校の音楽の授業では誰でもドレミが読めるどころか階名が移動ドなので、ドレミで歌う時はたとえばヘ長調ならハ長調のファをドと読まなければならなかった。4、5 種類の読み方が自動的に頭に入っていた。

縦笛もハーモニカも習ったし、クラス対抗の合唱コンクールや合奏コンクールがあった。

全員が無理矢理9年間もそんなことを続けていれば少なくとも、自分に適性があるか、音楽や楽器が好きか嫌いかははっきりしてくる。

ところがフランスの小学校(5年間)には音楽の時間がないので、音楽をやりたい子供は幼稚園の頃から公立のコンセルヴァトワールに通って楽典、コーラス、楽器を習うことになる。毎年進級試験があるし、二度落第すると残れないから、レベルはかなり上がる。中級の試験の聴音などは、日本なら音大の入試レベルですよ、と驚かれたこともあった。だから、中学では音楽の授業が始まるのだけれど、その頃には、コンセルヴァトワールに通っている子とそうでない子(ドレミも読めない)との間に差があり過ぎて、教師は音楽の基礎を教えることが不可能だ。縦笛が少し手ほどきされることはあるけれど、基本的にはみんなで歌を斉唱したりいろいろな曲を聴いたりというレベルにおさまってしまう。

私は、こういうシステムは不公平だな、音楽教育の機会平等がないなあ、とこれまでずっと思っていたのだ。
日本の音楽教育の方が民主的だと。

しかし、よく考えてみると…

吉原真里の言うように、楽器の勉強は膨大なコストがかかるので中産階級以上の家庭の子供にしか不可能だとか、クラシック音楽の技能を磨くことで社会的な階層の上昇を見込める、というような言説が、フランスには相当しない。

なぜなら、小学校に音楽の授業がない代わりに、どんな町にも必ず公立のコンセルヴァトワールがあって、住民であれば、家庭の収入に応じた授業料で通えるからだ。

「教育社会主義」のような国だから、はっきり言ってその額は、低収入家庭に対しては限りなくゼロに近くなる。

弦楽器はみな貸してもらえるからコストゼロなので低収入家庭の子供が集まる。ピアノはさすがに家に楽器があるのが条件となるが、レンタル業者も普通にあるし、そこはフランスだから、100年も前の古いピアノならあちこちの家庭に眠っていたりする。

で、何が起こるかというと、親が子どもに音楽をさせようとしさえすれば、低収入家庭の子供でも、アラブやアフリカ移民の子供でも、楽典のクラスと楽器の個人授業と(これは必修)、室内楽のクラスと、合唱のクラスをほぼ無料で受けることができ、試験に通れば、そのレベルが全国で通用する。

引っ越し先のコンセルヴァトワールで同じレベルのクラスに編入できるのだ。
一定のレベルの免状があれば、国立大学のオーケストラに入ることも許可される。

コンセルヴァトワールから離れても、独学やプライヴェート・レッスンで用意した曲をバカロレアの楽器演奏オプションに登録して通過すると、最低の国家認定になる。

大学は基本的に国立の低料金で奨学金も出るし、音楽学を専攻して免状をとることもできるし、大学教授資格(アグレガシオン)もとることができる。そうすれば、最低でも、よい条件で公立リセの音楽教師として、数学教師と同じレベルの収入を得られる。楽器教授の国家資格もあり、それがあると公立のコンセルヴァトワールに職を得られる。

これがどういうことかというと、フランスでは親の意向があり、子供にやる気や才能があれば、最下層の出身でも、コストをかけずに音楽で食べていけるキャリアを築くことが可能だということだ。
移民だろうが外国人であろうが区別はされない。
出自にかかわらず均等な機会が与えられているということは、ある意味で民主主義が完全に機能しているということではないだろうか。
で、その音楽の基礎教育課程において、ジェンダーだの民族差が問題とされることはまったくない。そして共和国の免状さえ獲得すれば、後はそれがものをいうのだ。

だから、フランスではクラシック音楽で生計を立てている人の民族的階層的な先入観というのはあまりない。

フランスでも共和国の建前と社会の実態が乖離している場面はたくさんあるのだけれど、少なくともこの部分は機能している。

そしてアファーマティヴ・アクションも人種別統計も公的には禁止されているから、偏見は生まれにくい。

私自身についても、フランスのしかるべき免状がないので公立機関の音楽教師にはもちろんなれないのだけれどアーティスト支援のNPOを主催してその資金作りのためにピアノやギターの個人レッスンを口コミだけで、時には親子二代や三代の生徒まで抱えながら続けている。曲の理解と教える技術への信頼について、ジェンダー的にも民族的にもいかなる違和感も表明されたことがない。
民族楽器をコレクションするのも趣味なので、生徒にいろいろな音階を説明したりして、音楽の中で何が文化依存しているものか何が普遍的なものなのかの区別を教えることはあるし、ダンスとの関係に関しても延々と語るので、私のレッスンは面白い人にはものすごく面白いと思う。

擦弦楽器もやっているから、装飾音やスタカートなどの意味やニュアンスも、ピアノやギターしか弾かない教師には実感できないいろいろなヒントを与えられる。そして、究極的にはコミュニケーションとしての音楽の普遍性を伝えたいということを明確にしている。音楽の伝達はパッションなのだ。

でも、考えてみたら、私がこういう信念を掲げて生徒に喋りまくるということ自体、フランス語だからできるのかもしれない。

これが、日本語で日本人にレッスンするなら、「音大も出ていないのに」、「偉そうに自信満々で」話すということが、すでに自主規制で違和感を感じて気がひけると思う。

思えば、『バロック音楽はなぜ癒すのか』を出した時も、私にとって一番大事だったのは、それが一般出版社ではなくて「音楽之友社」から出してもらえることだった。

この本はユニヴァーサリズムを擁護する思想書でもあるのだけれど、音楽の部分について「アマチュアの繰り言」だと思われるリスクは減らしたかった。そのためには音楽専門の出版社のステイタスが必要だったのだ。

実際、この本を通じて、バロック音楽演奏者やダンサーと知り合うことができた。

クラシック音楽とバロック音楽(フランス・バロック)の違いも大きい。

吉場さんの本に出てくる、西欧人のクラシック音楽家がアジア人やアジアの音楽に抱く異国性を表明するようなケースは、単に彼らにフランス・バロックの教養がないせいじゃないかと思うことがある。

吉原真里さんの言うように、一番の問題は、クラシック音楽も経済的なフィールドでの市場論理に従うコストパフォーマンスの文脈で営為されているという現実だ。
生産と伝播が国際社会の経済構造に見合っているものが優れているとか意味があるかのように思われる。

「フランスの外に出なかったラモーの音楽よりも世界中で弾かれているバッハの音楽の方が普遍性があって優れている」と最近ある人が言われたことがあるが、世界中で弾かれていることは市場性の問題、流通や情報の問題であって、普遍性の問題ではない。手作りの職人業の料理を出す小規模の店がその料理人や伝統のあるところを出られないからと言ってマクドナルドよりも普遍性がないとか劣っているとかとは言えないのと同じだ。

アメリカという社会での音楽業界を観察すると、当然、「商品」としての音楽、音楽家に焦点を当てざるを得なくなる。

このことについて、実際に音楽で生計を立てられる人は一握りであるから、その反動として、金に魂を売らない純粋な音楽だけが優れているのだと孤高や清貧を称揚するアーティストの例も紹介されている。

これは、ある意味で本当だ。

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。

音楽はミューズのものだからミューズに。

市場原理で動くものはまったく別物で、偶像崇拝が起こる。

私たちのアンサンブルは「音楽にとって無償性は本質的なものである」と近頃ますます考えるようになっている。

無償性とはフランス語でgratuité であり、それはgrâce と同じルーツを持つ。grâce とは、恩寵であり、恵み、感謝、魅力、優美だ。
gratuitは「理由なき」という意味で純粋という名という使われ方もする。たとえば「理由なき反抗」のように。
意味がない、少なくとも、人間社会のロジックの中では意味がない。
コストパフォーマンス的にも意味がない。

英語で「無料」のfreeが自由という言葉を当てているのと同様に、神学的にはgratuité(無償性)とは、神によって与えられる恵みと救済の持つ自由で全的な属性を意味する。

つまり「無償性」には自分が金を稼げないとか、アートを売り物にしないとかいう以上に、音楽は神からすでに無償で与えられた恵みであって、それに感謝することまで含まれる。

そして、音楽の本質にそれがあるというのは、恵みとはすべての人と分け合えるし、分け合っても減らないし、それどころか分け合った時にこそ本当に「感謝の意味」を持つということだ。

作曲家やその生きた文化や時代の理解が「真正性」を担保するのではなくて、「恵み」の理解が音楽の真正性なのである。

私たちは、ラモーを弾く度に「神さま、ありがとう」と言いたくなる。もちろん、演奏をマーケットに乗せて生計を立てる必要にかられない自分たちの立場にも感謝する。

この吉原さんの本に触発されて、フランス・バロックの社会学的フィールドワークの論文が書けるくらいだ。

もちろん、フランスに勉強に来る日本人クラシック音楽家のいろいろなケースを見てみるとこの本に通じる部分はたくさんある。

この著者にはフィールドワークの機会がなかったらしい音楽家におけるホモセクシュアリティについても、私は本質的なものを感じている。

音楽におけるアイデンティティとか「真正性」についてもいろいろなことを考えている。

でも、もう十分長く書き連ねてしまったので、ここではいったんストップして、この本を出してくれたアルテスパブリッシングにとりあえず感謝の気持ちだけ伝えたい。
by mariastella | 2014-05-31 01:47 |
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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