今とりかかっている新書が終わったら次は今年の春まで『ふらんす』に連載していた『ナポレオンと神』の書下ろしをまとめようと思っている。
今年はエルベ島から脱出したナポレオンの百日天下、ワーテルローでの敗北とセント・ヘレナ島への島流しの1815年から200年経った記念の年なのでいろいろとナポレオン関係の催し物が多い。今のうちに見ておかないと秋にはいずれも終わってしまうのであれこれチェックしている。
先日は見ごたえのあるフォンテーヌブロー城での教皇と皇帝展、つまりピウス七世とナポレオンの対決をテーマにした展覧会に行った。近いうちにカルナヴァレ美術館に「ナポレオンとパリ」展を見に行く予定だ。
6月はじめにはマドレーヌ劇場に『Le Souper』(ジャン=クロード・ブリスヴィル作、ダニエル・ブノワン演出)を観に行った。ウェリントン軍がパリに駐留している時、ワーテルローは敗戦ではなかったという見方があったという部分に興味があったのだけれど、テーマはそんなところではなく、ひたすら、フーシェとタレランという連戦練磨の二人の男の人間劇だった。
「共和国」にこだわるフーシェ、ブルボン家を復権させることでヨーロッパの他の王国を懐柔させようと考えるタレランが、権力と名誉への執着をどのようにコントロールするのか、その駆け引きが見ものだが、パトリク・シェスネとニルス・アレストリュプという名優の掛け合いが堪能できる。
燭台には本物の火が灯され、食事も本物、最後の大雨のシーンでは水が降り注ぎ、舞台は水浸し役者もずぶ濡れと、驚きの迫力だ。
この作品は1989年にモンパルナス劇場でクロード・ブラッスール、クロード・リッシュによっても演じられたのだが、今ならやっぱりニルス・アレストリュプの独特の持ち味を抜きにしては語れない。
フォルカー・シュレンドルフの映画『パリよ、永遠に』
にも、一国の運命をかけた戦局の変わり目に話し合う二人の男というシチュエーションの芝居の映画化で、ドイツの将官として出演した。
今回のタレランは政治家、外交官としてまた「高位聖職者」として、さらに親の愛を受けていないとか、足が不自由であるなど、二重にも三重にも複雑な過去や立場を背負った人間だ。
フーシェもタレランも、「権力」への執拗な執着がある怪物のような存在で、フランス革命、ナポレオンの時代を生き抜いた天才的な処世術の持ち主でもある。
そういう意味ではとうてい共感をかきたてられないない人物たちなのだけれど、そういう「強者、勝者、卑怯者」が一体となったような二人が腹を探り合い、保身を図りつつも、それでも自分たち個人の次元を超えた大きな歴史を背負っていることの自覚はあり、「人間的な弱さ」が図らずも(あるいは自覚的に ?)露呈していく部分には心を動かされる。
外では民衆が騒ぎ窓に石が投げられてガラスが割れるなどの喧騒があるのに、二人の男はテラスで上品にグルメな夜食をとっている不思議さ、歴史と個人の運命の乖離、そして二人の個性が相対する時に歴史が変わる瞬間があること、が、映画でなく役者たちと空間と時間を共有することでいっそうマジックな別世界体験として迫る。
この1815年7月6日の夜、フーシェは56歳、タレランは61歳だった。
フーシェはその5年後に死に、タレランは84歳まで生きた。
六つの頭を持つ男というカリカチュアには「国王万歳、第一統領万歳、皇帝万歳、自由万歳」などとコロコロ変わるタレランの姿が描かれる。
タレランが悪魔にささやかれている絵もあるが、それを見ると、なぜか、ナポレオンにはきっと悪魔の声も必要なかったのだろうなと思った。