パリのギャラリーで久しぶりに吉井秀文さんの個展をやっている。
Galerie Arichi
26 rue Keller 75011 Paris
tél: 09-5146-5114
吉井さんの作品については以前パリにお住まいだった時に書いたことがある。
今回案内をいただいた後に、写真で、黒光りする彫刻作品とドローイングを見て驚いた。
10年以上前のあのカンバスから抜け出た「筆勢」だけでできた透明感や自由な感じとは対極の鉱物的な重いものに見えたからだ。タイトルは「彫空」というのだけれど、無機質で地から発生する結晶みたいに見える。
でも、彼の作品は生身の「出会い」を必要とするものだと分かっていたので、楽しみにして出かけた。
鉛筆の光沢による無機質さの奥に有機的な生成の力が閉じ込められている。
この形はいったい何かというと、鉱物どころか、「泡」なのだ。
シャボン玉は一つだと丸い。
自由で、舞い上がり、でもはかなくはじけて消える。
空気を閉じ込めきれない。
シャボン玉の自由は空気の自由に負ける。
そのシャボン玉が2つくっつくと、くっついた部分はもう丸くはない「面」になる。
「角」が発生する。
吉井さんはアクリルのケースの中の水に洗剤を入れて空気を吹き込み無数の泡を発生させ互いにくっつかせる。
それらにはもう「丸」や「球」の面影はなく、さまざまな「角」を持った不思議な形になる。
それは空気と水のせめぎあいであり、絶えず居場所を確保しようとする張力同士の「共存」の形態だ。
吉井さんはそれを観察し、その中から一つの形、あるいはくっついたいくつかを選んでデッサンし、その角に折り目をつけて浮き立たせ、光と影の立体感をつける。
やがてその向こう側も表現したくなって、ウレタンを材料にして三次元に取り出してプラスティックで表面加工し、ドローイングと同じように鉛筆で塗り上げるのだ。
それが「たった一つ」の場合でも、地から生成した結晶とは正反対で、その形は、それぞれの面を形成する「外からの力」とのバランス関係によっており合った地点の集合体なのである。
中は空気に過ぎない。
それ自体空気を閉じ込めたひとつの気泡が、球になる自由を拒否されて他の気泡との併存を強いられ、それが形になったもの、が取り出されたのだ。
彫空というのは、彫刻における「マスを刻む」ということがなくて、この作品が泡同士の内なる空間の力が、外からのあらゆる方向からの「同類の力」を受けて形作られた姿を写し取ったからなのだ。
ひしめく泡たちが周りの力によって一つとして同じ形のない独特の形に造られて、それらすべてが連動していて、ナンバーワンもなければオンリーワンでもない世界。
何かを表現したいというのではなく、何かが「ある」ということを切り取ってそこに置かれた不思議な作品だ。
ギャラリーにいたある年配のフランス人は、その形が大小二つ、三つと組み合わさったものに、より生成の秘密を感じると言っていた。
それは大きいものから小さいものが生まれるというのではない。
実は大小の互いが互いを成り立たせていること、
そしてその周りには、描かれていないけれどその大小の形をそうあらしめている無数の「力」があり、
見ている私たちも含めて「ある」ということは常にそういう「あり方」なのだという秘密なのだ。