奇跡の治癒の話ばかりで自分でも飽きてきたので、別の話。
パリのIPT(プロテスタント神学院)の学期初めの公開記念講義に出席した。
Anna Van den Kerchoveという宗教史学者によるヘルメス・トリスメジストルが古代キリスト教でどのように扱われていたか、というのがテーマが、ひょっとして出席者の中でこの話に一番興味をもっていたのは私ではないかと思う。学会発表でもないので質疑応答もなくノートをとっているのも私だけだった。
私がヘルメスについてエゾテリスム史で講義を受けていたのはもう30年以上前で、マルシリオ・フィチーニのプラトン・アカデミー、つまりルネサンス以降のヘルメス文書の受容とその展開、特に18世紀以降の歴史だったので、アウグスティヌスはもちろんラクタンスなどがヘルメスについて何を書いていたのかなどはすっぽり抜けていた。
最近フィレンツェに行ってフィチーノの墓を訪れたので、プラトン・アカデミーの意味についてフィレンツェの歴史にからめて考えてなおしていたところだった。
今回の明快な講義で分かったのは、初期キリスト教がまだローマ帝国の国教でなかった頃に、同時代に出回ったヘルメス文書について、初期神学者が述べている内容だ。
エジプト人(アレキサンドリアなどのギリシャ語圏で当時の学問の中心地だった)をキリスト教に改宗させるためにラクタンスはヘルメスの名を20回も引用し、
ヘルメス(この文脈ではエジプトのトート神)はプラトンの師であった、
そのヘルメスが、「一神教」(唯一で至高の神で、物質的犠牲の供物を否定する神)を説いていた、
ヘルメスは多神教の賢者よりもユダヤの預言者に近いのだ、
などと言っていた。
宣教のツールであったわけだ。
その後、キリスト教がローマ帝国の国教になって多神教の典礼が禁止されたので、もうヘルメスを使う必要がなくなった。
その反対に、いまだにヘルメスを信仰しているものがいるとまずいので、ヘルメスはキリスト教に敗れて嘆く哲学者であるという異教側のキャラとして扱われたのだ(『神の国』)。
背教者ユリアヌスを批判するアレキサンドリアのキュリロスは、ヘルメスがモーセと出会っていた、シリアの予言で父なる神の意志で神の子が人となったと言われた、などという風に使った。
その後、6世紀もの間忘れられ、もう一度引用され始めたのが11世紀以降のビザンティンで、それが12世紀に西方教会に伝わってラテン語訳されてから、12-13世紀にはヘルメスの名を冠して書かれた錬金術の「ヘルメス文学」が花開いた。
私の知っているルネサンスにおいては、ギリシャ語の哲学がギリシャ語で読まれ始めたので、フィチーノがギリシャ語のヘルメス文書を手に入れた時、いわばプラトンを正当化する前段階としてにヘルメス文書が重宝されたのだ。つまり両方とも「キリスト教以前」のものでキリスト教によって完成する哲学の系譜の原初にあるという考え方である。
後にヘルメス文書が実は初期キリスト教と同時代のものだと判明したわけなのだけど、プラトンとモーセとヘルメスの時代的な関係についての言説の複数のヴァージョンはいつまでも残った。
講義の後でパーティがあったので、Van den Kerchoveさんに、12,3世紀の「ヘルメス文学」について教皇庁はどのように対応したのかという質問をした。
全くフリーパスだったそうだ。
確かにルネサンスには錬金術も「実験科学」、化学の祖として扱われたので、いわゆる呪術というステイタスではなかった。
1488年以来
シエナのカテドラルの床のモザイクにくっきりと残るヘルメス・トリスメジストルの姿を見ていると、時代考証とかが間違っていたのが判明しても堂々と残してしまうローマ・カトリックのいい加減さがちょっとほほえましい。