『現代思想』2015 vol.43-3 特集「反知性主義と向き合う」を少し読んだ
北原みのりさんの「私たちが、女が、完全に諦めてしまう前に」という記事は衝撃的だった。
昨年の末、わいせつ物公然陳列罪で逮捕されてからの4日間のレポートなのだけれど、信じられないような人権侵害の時間と空間の中で、彼女が怒りよりも
「ああ、日本っぽいなあ」
というなじみ深さを感じたというところがすごい。
80年代までに日本の公立小学校の教育を受けた人なら分かるだろう、ともあった。
そう言われてまず思い出すのはまずい給食を残してはいけない、という決まりだ。
みんなと違うかわいいものを持ってきたりしても注意されたことがあったかもしれない。
公立中学も「質実剛健」とかで確かにスカート丈とか髪の長さとか制限があってチェックされていたと思う。
「風紀委員」なんて今でもあるのかなあ。
私にとって規則とは「穏便に破るもの」でしかなかったけれど。
どんな破り方をしても母親が全面的に協力してくれたこと、「優等生」のわがままなので学校側が比較的リスペクトしてくれたことなどからあまりトラウマにはなっていなかった。
規則や枠組とは破ったり乗り越えたり迂回したりする指標として常にあった。
私が今日本以外の国で暮らしているのもその延長にほかならない。
北原さんは、身体に染みた「規律」と「公」の圧力が、今も日本の社会の根にあって、全体を優先して個の心をなくしていくと書いている。
それは留置所特有ではなく、日本の歴史と社会と今の空気の中にある、
いつの間にかみんな自分自身が列からはみ出たくないという感性に支配されて行く、
特に権力の前で徹底的な無力を味わわされ続けている女性たちがあきらめないうちに未来を描いていかねばならない、と。
留置所で一緒だった外国人女性たち(半数以上が不法滞在など)には通訳すらつけられていない。
外国人、不法滞在者、しかも女性、と、弱い方へ弱い方へと、圧力は強くなる。
こういうものを読むと、私と同時代を生きて、学校時代にトラウマを受けたりすでに「諦めてしまった」りした多くの人たち、それから時代や形は変わっても実は続いている「公」と「規律」の圧力に屈したり、迎合したり、戦ったり、潰されたりしているすべての人にシンパシーを覚える。
その後の森達也さんの記事「歴史的過ちは、きっとこうして始まった」にも、集団に個を埋没させている多数派にとって論理や理性は目障りだとある。
そしてこれもショックだけれど、日本は「集団と相性がいい」ので、傾斜しやすく暴走しやすく復元力もない、とあった。
でも、ネットで読んだ、
9/18日の 「この国の立憲主義と民主主義を守るため、安倍内閣は不信任されるべき」――民主党幹事長・枝野幸男氏の演説の中で引かれている斎藤隆夫の反軍演説や、浜田国松の腹切り問答が日本の過去にもあったのだから、少なくとも、声をあげた「個」の記録はある。
その2人とも、当時70歳だったということも感動的だ。
年齢を重ねてますます強固になる正論というのがある。
団塊の世代の人たちがこれからどんどん発信していく励みになるかもしれない。(続く)