誤解をされた方がいらっしゃったかもしれませんが、日曜のノートルダムの追悼ミサは別に「国葬」扱いではなく、カトリック教会の主導です。もちろんシンボリックには大きな扱いでしたが。
今回のテロは「冒聖の自由」とは関係がなかったから、あちこちのモスクでも、シナゴグでもそれぞれ追悼をやっていましたし、月曜正午の1分間の黙祷もいろいろな場所であったようです。
私は前の時も書きましたが、決まった時間に集まっていっせいに黙祷とかいう集団行動が嫌いなので(もしい合わせてしまったらもちろん他の人へのリスペクトのためにみなと同じようにしますが)、パリ市内ですが全然関係ない場所にいたので黙祷を目撃しませんでした。
オランド大統領がソルボンヌを黙祷の場所に選んだのは悪くなかったと思います。
学生や教師の中に犠牲者がいたこともありますが、外国人も多く自由を謳歌している若者たちのいる多様性満載な場所は、宗教や国籍や性的傾向などと関係なく音楽を楽しみにやってきた場所でテロにあった若者たちを追悼するにふさわしい感じがしました。
メディアは犠牲者のプロフィールをいろいろ流していますが、犠牲者を「数字」でなく個人として紹介することで多くの人の感傷を煽っているのが実情なのでそういうのは見ないことにしています。
天災の犠牲者と違って、そういうのを流せば流すほど、「想定テロリスト」(これは実行犯が死んでいるので若いアラブ系ムスリムとか実行犯と姓や名前や出身地が同じ人たちやシリア難民など)への偏見や憎悪などが養われ、報復空爆を無条件正当化する感じがします。
変な話、私は、自分や自分の家族が巻き込まれたら、とにかく目立たないようそっとしておいてほしいタイプです。
テロの次の日に超特急TGVの試運転で脱線事故があり、試乗していた子供たちを含めかなりの死者も出ました。
テロ特集の陰でほとんど詳しい報道がなく、犠牲者の家族はそれをどう受け止めたか知りませんが、これが「平時」であったならさぞや大騒ぎして繰り返し犠牲者の個人情報が垂れ流されていたことだろう、と複雑な気持ちになりました。
活字メディアの中には読み応えのある記事も少しあり、いろいろ気づかされましたがそれはまた別の場所に反映させます。
TVでは、ある座談会の終わりに、今の情況でオプティミズムとペシミズムをどう見るかと問われた時に、シャルリー・エブドの編集長を長く務めたフィリップ・ヴァルが「卑怯者(下司野郎)には悲観的だが、ただのバカには楽観的だ」、と答え、もう一人が「理性には悲観的だが意欲(意志)には楽観的だ」と答えていたのが印象的でした。
次のテロが予告されているとのこと、フランスの他の都市やワシントンやローマのことも心配ですがやることがたくさんあるので救われます。