4月の末、東京の聖マリア大聖堂に巡礼した時、地下のクリプトでなつかしいアヌーイ神父さんの写真の添えられた銘板を見た。分骨がされているらしい。
地下聖堂では苦しくなるくらいの静けさ、というより沈黙に押えつけられるような気がしたけれど、納骨所のすぐ向こうからはロザリオを唱える声が聞こえてきた。
アヌーイさんは水道橋のアテネ・フランセの先生という以外にどんな経歴の方なのかなどを当時は調べようともしなかった。何十年も経った最近になって偶然ウェブで検索したら、1909生まれ、1983に亡くなったとあった。25歳の3月に叙階され、半年後大阪にやってきたパリ外国宣教会の司祭で、1939年にグレゴリオ聖歌の教授になり、東京のフランス語教区の司祭を35年間務めたとあり、東京カテドラルの地下に銘板があることも知った。
私がお世話になった当時、真っ白なおひげを蓄えて、サンタ・クロースそのものだと思った。でも計算すると、今の私とほぼおない年だったのだ。
私は第一外国語が英語、第二外国語がドイツ語のクラスで、第三外国語にフランス語、中国語、ギリシャ語(後にスペイン語とペルシャ語、アラビア語も受講した)をとり、アテネ・フランセではフランス語、英会話、ラテン語をとっていた。
ところが専門課程で、当時上智の外国語科と並んで唯一卒論を外国語で書くことが義務付けられていた学科に進み、それがフランス語だったので自分のスキルのなさにあせった。
先生たちは公平を期するために学生のフランス語の添削はしないということだった。
誰に見てもらうべきか迷った。ネラン先生によるフランス哲学の講義のレポートの経験から、難しい構文は避けて、内容さえあれば、後はできるだけAはBである、とかAはBをCするという感じの単純な分だけを積み上げていった方がいいということは学習していたが、ともかく、論文を提出する前に誰かに読んでもらって理解できるかどうか、間違いがないか見てもらう必要がある。
で、私ははじめてアテネ・フランセでアヌーイさんのクラスの和文仏訳というのをとることにした。テーマは井上靖の『敦煌』の仏訳だった。私の目的は最初から卒論のフランス語を見てもらうことだったから一番前の席について皆勤した。若い女子学生が熱心に出席したのだからすぐに覚えてもらえたと思う。青い瞳が印象的だった。(
ネラン神父とアヌーイ神父の思い出は前にも書いたことがある。)
あの綱渡りのような卒論提出から、40年以上も経った。
東京カテドラルのクリプトで分骨されている場所に手を触れると、アヌーイ神父のにっこり笑った優しい青い目の視線に包まれるような気分になった。
アヌーイ神父さま、
私はもう、あなたよりも長くフランスに住んでいます。
あの時あなたが下さった無償の愛とそれを担保していた聖霊の働きみたいなものはずっと私の中で生き、形を変えて広がっています。