(前回からの続きです)
9.秘密を話さないで持ちこたえる能力
これには「嘘をつく能力」も関連しているそうだ。
もちろんやましいことを隠すために嘘をつくというのではなく、「秘密を話さないで持ちこたえる」ために、適当につくろうことも必要だということだろう。
また当然だが嘘をつかずにはおられない虚言壁は「病気」の範疇に入る。
「秘密」というのは、自分以外の他者の秘密の場合、他者と共有する秘密の場合、自分だけの秘密の場合などがあるだろう。
一般に、秘密を抱えているのはストレスになる。
穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と叫ばないと精神の安定が保てないこともあるだろう。
「話さないで持ちこたえる能力」というからには、その秘密とは、自分で絶対に隠しておきたくてしっかりと抱え込んでいるタイプの秘密ではない。
うっかり知ってしまった、あるいは偶然知る立場になってしまった他人の秘密であり、それを別の人にも知らせたくてたまらなくなる類の秘密ということだ。
知ることが何かの特権や優越感や娯楽に結びつくようなもので、それを広く知らせて別の人と共有することでいっそうそれが増幅されるような秘密かもしれない。
他人の弱点や失敗、隠し事を世に広めて騒ぎが起こるのを見たいという誘惑にかられる類のものもあるだろう。
今の時代なら数々のソーシャル・ネットワークを使って匿名で誰かのゴシップを暴露し「拡散希望」するという誘惑に耐える能力かもしれない。
「秘密がない」のが健全で精神衛生にいい状態とは限らない。
これも、今まで挙げられた「能力」との関係でいうと、秘密のない真っ白な潔白な純粋無垢の状態でいるよりも、表と裏があったり、いろいろな顔があったり、それを状況に分けて使い分けられたり、その中に矛盾があっても深刻に悩まないでいられたり、というグレー、または黒白混在の状態でもよしとできる能力だろうか。
自分の秘密は自分を脆弱さから守ってくれるかもしれない。他人の秘密の共有はその人との関係を深めたり強固にしたりしてくれるかもしれない。
そんな「秘密」と同じ機能を持つ嘘もあるだろう。
時と場合によって、精神の健全さを保つには、他者の精神状態の良好さに貢献するには、「秘密」と「嘘」をセットにすることも必要だろう。
カトリックにすり合わせてみると、祈りの中で神やキリストや聖人たちに自分の秘密を吐露することができるし、告解の中で「守秘義務」のある司祭に打ち明けて免償を得ることさえもできる。
秘蹟の中に「秘密」が組み込まれている宗教は精神衛生にいいのかもしれない。
「嘘をつく能力」というのも、宗教者が、決まった典礼に沿うだけで、たとえ切実に心から湧いてこない言葉でもあまり深く考えないで唱和しても罪悪感を持つことなくスルーできる場合を連想させる。
他者を傷つけるわけでなければ、あるいは他者を傷つけないためならば、方便としての嘘を自分で厳しく責めてはいけない。
いつも「内実」を失わないでいるのは難しい。
だからこそ典礼のような「形」が決まっているのはありがたい。
「形」を、とりあえず、それこそ型通りにこなしているうちにいつしか促され養われてくる内実もある。
心が伴わなくとも形を整えておけば、いつかそこが聖霊がはたらいてくれる場所になるかもしれないと期待できるのは悪くない。