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前回からの続きです)
14.予感や余韻を感受する能力
この世界を味わいのあるものにする上で重要な能力で、たとえば芸術作品の受容・体感がこの能力を育み、野生の馬である「徴候性」と折り合いをつけられるようになっていくという。
いわば、「徴候」を感じ取るのは原始的な段階で、それを洗練させていくと、単に「空気を読む」ようなサヴァイヴァルでなく、目に見えない世界まで主体的に味わえることができるということだろうか。
予感は、まだ現れていないものの気配であり、余韻はもう消えてしまったものの気配だ。
雨の前の湿気た重い空気、雨の上がった後のさわやかな空気など、誰でも具体的に思い浮かべられる。
音楽の演奏でも、最初の一音の前にもうすでに流れている音を聴きとって、すくいとって、思いを乗せた時にやっと実際の空気の振動としての音が聞える。
最後の一音は、さざ波の最後の揺れがすうっと音の大洋に吸い込まれて行くように消えていく。
音楽は常に、音と音の間、予感と余韻の部分に流れていると言っていいくらいだ。
振動の部分にだけ反応していたのでは音楽の意味が分からない。
人生でもそうで、今生きている部分だけに反応するのではなく、自分(や大切な人)が生まれてくるまで延々とつながってきた命や、自分(や大切な人)がこの世から見えなくなっても続いていく大きな命の流れへの感受性がなくては人生の意味が分からない。
カトリックだけではなく、一般に宗教はそのような「意味」を示唆してくれるようにできている。
輪廻転生でステージが上がっていく(あるいは転落する?)というタイプの宗教よりも、カトリックの聖人信仰や「信徒の交わり」とよばれる、いったん「神の国」に参入したら、時空を超えてみんなが交わってしまえるというダイナミックなものの方が、分裂気質の人には助けになるのかもしれない。
時空系列の整合性などなくても気にしなくてもいいのだ。
典礼で、冷静に考えたらどんなに不思議なこと、非合理的なことを言われても言わされても、「神の国」の予感をもらえる装置だと思えば喜びにつながる。
芸術作品の受容能力と確かに似ているかもしれない。
一冊の本、芝居、映画、どれもみな、現実生活の時空やロジックの枠組みに留まったまま「外から」見てしまえば何のカタルシスも得られない。
予感と余韻に心を開いて「参入」する時にだけ得られる良好感というのが存在する。