これは
その1の続き。
その2は、タイミングだ。
このテロは、ポーランドの世界青年の日(WYD)の開会日に起こった。
普通なら、フランスは、バカンス時期で、ジャーナリズムも含めて、社会のリズムが緩慢になる。
まあオリンピックが始まったらメディアはオリンピックをネタにしていくだろうが。
ニースのテロのネタは盛り上がったけれど、犯人が単独行動のチュニジア人で、ジャーナリズムが大好きな「フランス生まれの青年がISに洗脳され過激化し、帰国したのにちゃんと危険分子として拘束されずにテロを実行」というステレオタイプとは、ずれていた。
そのせいもあって、10日も経てば、来年の大統領選で社会党からの政権奪取を図る保守勢力が国家警察の警備不備などを告発したり、今のセキュリティはなっていないと非難したりする口実になり果てている。
そこへ犠牲者の数としては小規模だが、シンボリックな意味が濃い今回の事件。
しかも、フランスのカトリックがわりと近いポーランドのWYDに集まったり目を向けたりしている時期だ。
教皇が水曜に現地入りして木曜にミサを挙げる。
200万人の若者が集まっている。
フランスからISに渡ってジハードのための「軍事訓練」を受けている若者が数千人もいると恐れられているが、WYDには3万5千人も行っている。
そこで恐ろしいテロのニュースを聞いたが、たくさん集まっている司教たちから、
「報復は悪の勝利だ」とか
「命を造った神ならいかなる神でも私たちに殺しあえなどとは言わない。我々(キリスト者とムスリム)は信頼と尊重のうちに共同のプロジェクトを築いていかねばならない」
「殺すのには勇気はいらない。異なる人たちとのきょうだい愛を育てることに勇気が必要だ」
などと畳みかけられ、まあそれはいつのWYDでも繰り返されるものではあるのだけれど、今回は「リアルなコンテンツ」となった。貴重だ。
そして、若者たちを見ていると、フランス人はもとより、やはりテロのニュースをポーランドで知ってショックを受けたドイツ人たちもいるのだけれど、そこでは、「闇」よりも圧倒的に「光」が支配しているので、やがて笑顔が戻ってくる。
この世界は若者たちが笑い、集い、歌える世界でなくてはならない。
時として、一握りの悪いニュース、スキャンダル、揶揄、非難、弾劾、嫉妬などの言葉ばかりが増幅されるこの世の中で、クラクフでの数日間は愛と希望のメッセージが優先され、先行し、伝染する。
若者たちは「試練」とどのように戦うのかのメッセージを受け取り、それを私たちに伝えてくれる。
この「試練」がこのタイミングで起こったことに神慮が働いていないなどと、誰が言えるだろう。
(この後、その3の「ベルナール・カズヌーヴ」、その4の「フランスのムスリム」が続く)