(これは前の記事の続きです。)
MJは自分の同性愛という性的志向を変えようとしたわけではない。
性的志向そのものは、背の高さやら近眼や左利きやその他の社会的に不都合な与件と同じような「与件」であるからそれを「治す」ことはできない。
ただ、モンパルナスに行くこと、刹那的に欲望を満たすことをやめたかった。
「今日からもう絶対にxxしない」と年の初めや夏休みに決心する子供のようなシンプルなすなおさと、ダイエットや禁煙を誓っては挫折する大人の自己嫌悪との両方がMJに取り付いて離れなかった。
これはある意味奇妙なことだ。
他のアーティストたちがカトリックの洗礼を受けていようといまいと「不道徳」なことを平気でしていたように、フランスは今でもそうだが、アーティスト世界の治外法権のようなものがある。
「惡の華」の美学、倒錯が「美」の名のもとに許され、MJが死んだ年に『泥棒日記』を出したジャン・ジュネのように、そして「芸術による救済」の名のもとに彼を「聖ジュネ」と呼んだサルトルがいたように、嗜虐癖でも被虐癖でも同性愛でもありとあらゆるネガティヴなレッテルがポジティヴなものに反転する。
居直りでなくて「誇り」にすらなる。
だから今でもアートの世界には同性愛者が多い。
1981 年まで同性愛が犯罪とされていたフランスのような国で潜在的な生きづらさを抱えていた彼らが堂々と認知される世界がアートの世界だった。
多くのマイノリティと同様、常にサバイバルのための戦略を練り、「異質性」や「個性」につい自問することが多い時、持って生まれた感受性は研ぎ澄まされる。
「その他大勢」ではアーティストになれない。マイノリティであることを誇るのはアートと親和性があった。
では、パリで最先端のアーティストとして認知されていたMJはわざわざカトリックに改宗して教会に出入りしなければ悩まなくて済んだのに、なぜ「悩むこと」を選んだのだろう。
芸術による自己実現や社会的認知によって同性愛に折り合いをつけられなかったのだろうか。
「真のアーティストであれば性的傾向に悩まなくてもいい」というアーティストたちの「同調圧力」を受け入れなかったのだろうか。
キリストが介入した。
MJはカトリック教会に入れば必ず見つけることができる同年輩の「十字架の男」を愛した。
この男を十字架から降ろしてやりたかった。
それには祈りが必要だった。
「カトリックにしか芸術はない」とまで言った。それは挑発だったのだろうか。
MJが自分で受容できなかったのは性的志向ではない。
受容できなかったのは、性的志向を実行に移すことをやめようという自分の誓いが守れず挫折することだった。
第一次大戦が終わり、彼はラディカルな決心をする。
パリを去ることだ。
「悪徳」から遠ざかる唯一の方法だった。
1921年6月24日、MJ はオルレアン司教区のサン・ブノワ・シュル・ロワールにやってきた。
パリから160キロ離れた小村での生活は、当時なら十分な隠棲を期待できるものだった。