(これは前の記事の続きです。)
オルレアン司教区の司祭フランソワ・ヴェイルがMJに「隠棲」先としてサン・ブノワ・シュル・ロワールを推薦した。
ノートル・ダム・ド・フロリィの修道院で有名なところだ。ロワール沿いのこの修道院は630年に建てられたベネディクト会のもので、
聖ベネディクトの聖遺物にふさわしいバジリカ聖堂を建てようと1067年に決定され、1218 年に完成した。
ところがここは1903 年に最後の修道僧がいなくなって、MJが移り住んだ時には誰も住んでいなかった。
(MJが死んだ年の1944年に再びベネディクト会修道院となり、現在32人の修道僧がいて黙想会なども行われている)
思えば1915年の洗礼以来、MJにとってパリの生活はますます誘惑に満ちたものになっていた。
1919年にはジャン・コクトーとレイモン・ラディゲと知り合っている。
30歳のコクトーは16歳の天才少年ラディゲに夢中だった。
この二人に同性愛の関係があったかどうかは分かっていない。
ラディゲは14歳の時に知り合ったアリスとの関係をもとに『肉体の悪魔』を書いている。
少なくとも5人の女性と関係があった。
コクトーもバイセクシュアルだったが、ラディゲへの愛を隠していない。
MJが最初の「隠棲」をしていた期間の1923年の末にラディゲはチフスで死に、死ぬ前に高熱の中で
「怖い、三日後に僕は神の兵士たちに銃殺される」
と言い残した。
同じくMJの隠棲期間の1925年にカトリックのジャック・マリタンのところに出入りするようになったコクトーは「回心」して聖体拝領をした。
でもそのコクトーは、その後、ジャン・マレーとの同棲生活でも知られるように、同性愛について悩んでいるようには見えない。アカデミー・フランセーズの会員にも選ばれたし、レジオンドヌール勲章ももらっている。
どうしてMJが、MJ だけが、しっかりと居場所のあったパリから逃げる必要を感じたのだろうか。
自由や放縦や挑発をアートのスタイルにして、生きる糧にして、軽々と生きていけなかったのだろうか。
MJの「隠棲」が始まった。