(これは前の記事の続きです。)
「(悪に罪という名を与えるという)呼び方なんて「偽善」でしかないって君は言う…いや、偽善なんかじゃない、それは神を畏れるってことなんだ。
できるだけ告解に行きたまえ、自分の弱さを悔いていればいいんだ。
君は多くを要求しすぎるんだ、「少しだけ」っていうのを拒否している。
「少し」を受け入れて告解するんだ。
君は神に「僕の好きなものに嫌悪感を持てるようにしてください」って言った。
全ての嫌悪には味わいがある、まだ君も僕もその魅力を味わっていないようなパーフェクションに喜びをもって到達できるだろう。
完成なんてない! 完成なんてあり得ない! 宗教にも文学にも完成はない。
君は生きた寸劇になるつもりはないだろう、なら溝に落ちるってことを認めるだけの普通のそこいらの男でいるんだ。
弱さを告解して弱さをそのまま受けめるんだ。(…)神はそんなささやかな改悛で満足してくれる。
でも僕らはみんな最後の審判で裁かれて、その時は、ささやかな改悛の積み重ねが生きてくるんだ。
だから、悪を悪とみなすことを軽視しちゃいけない。神は僕らを喜ばす別の道を示してくれるだろう。」
(コクトーへの手紙)
「少し」を受け入れる。
「少し」の希望を求め、「少し」の希望をもらえるだけでいい。
その後でまたクラッシュしてもしょうがない。
希望があるからこそ失望がある。
希望がなければそれを失うこともない。
希望を捨てない人は失望を繰り返す。
免償してもらうといつもフェニックスのように希望がよみがえるので、少なくとも「絶望」はない。
「希望」の反対は「失望」ではなく「絶望」なのだ。
でも、自分の誓いが自分で守れなかったと失望した時に、
悪魔が
「ほーら、だめだった」、
「すぐ失う希望なんて無意味だ」、
「もう無理無理」、
と言って「絶望」へと誘惑してくる。
それを押しのけるのは一人では難しい。
悪魔は自分の心に住んでいるからだ。
そこを助けてくれるのが告解と赦しの秘跡と聖体拝領だ、とMJは言っているのである。
(続く)