人気ブログランキング | 話題のタグを見る

L'art de croire             竹下節子ブログ

マックス・ジャコブの回心 その16

(これは前回の続きです)

二度目の隠棲生活においてMJは果たして自分の欲望と折り合いをつけられただろうか。
欲望には相変わらず苦しめられたけれど、それに打ち勝つ「方法」を見つけたと思えるエピソードがある。

1938年から39年にかけて何度もMJを訪問したジャン・クラリーの証言であり、そのエピソードは不思議な色合いを持つ。

「彼の寝室には暖炉が一つあり、その暖炉の前の床に赤いタイルが何列か張られていた。彼(MJ)はある日それを指さしてこう言った。」

「肉体の悪魔がぼくを執拗に責め立ててくる時、ぼくは裸足になって、いつも冷え切っているこのタイルの上に立つんだ。すると、急激に、あっという間に、悪魔は逃げ去る。
これで僕はすっかり解放された気分になるが、それも奴の次の攻撃までのことだ。
奴を撃退する方法をぼくが持っていることを知っているはずなのに。
いや、それとも、このタイルのおかげでぼくが簡単に勝利できるからこそ、悪魔がぼくをしょっちゅう苦しめに来ることを神が許しているのかもしれない。」

共同の修道生活という形態が始まる前のキリスト教における「荒野の隠遁修道士」の系譜においては欲望を鎮めるために茨の茂みの上を転がって棘で体を痛めつけるという克服方法があった。
「痛み」の感覚は脳にとっての優先情報となって他をブロックするから有効だったのだろう。かゆみをブロックするためにかゆいところに爪を立てるのと同じ「知恵」だ。
MJにとって足を冷やすことが本当に欲望を鎮める効果を発揮したのかどうかは分からない。
一度でもそれが「効いた」という成功体験がインプットされて一つの「儀式」として組み込まれて、欲望を自制することができたということかもしれない。
彼は自分が信じていたよりもはるかに危機管理の術を身につけていたのかもしれない。
荒野の隠遁修道士たちは別に同性愛の欲望に苦しんでいたわけではない。
MJの欲望が脳内で若い男に向けられていたとしても、それは脳内で若い女性を欲望する修道士の苦しみや克服の工夫と何ら変わることがない。禁酒や禁煙や麻薬を断つことに苦しむ人々とも変わらない。
MJのそれが同性愛であったことの不都合は、それが当時のキリスト教の常識で「罪」であったこと、そして、それが社会的にも「不都合」なことであった故に安定した伴侶を得て暮らすことが不可能に近かったということだ。
もしMJが異性愛者であったなら、同じように信仰深く貞節な女性と恋をして幸せに信仰生活を送ることができたかもしれない。とはいえ、異性愛者であっても、妻との愛がさめたり、裏切られたり、他の女性に誘惑されたり、などいろいろなリスクは避けられなかっただろう。
聖母マリアへの熱烈な信仰から考えても、MJには、異性愛であろうと同性愛であろうと、この世の生身の人間を通しては全うできない高い理想の希求があり、それは彼の創作における「美」の追求によって置き換えられた。アートにおける「美」に殉じたからこそ、MJ は多くのアーティストにとって信頼できる友、敬愛する師であり続けることができたのだ。
だからこそ、シニカルなエリートたちも、MJの「罪悪感に苛まれる姿」と「神を夢中に賛美する姿」の対比を嘲笑する代わりに、いつしか、MJの苦しみの中に自分たちが敢えて忘れようとしている「何か」を感じ取って、畏敬の念を抱くようになっていたのだ。

性的傾向が罪悪感を深めるかどうかは時代と場所と人間関係によって変わるものだ。変わらないのは、超越的な神に向かう意思を抱いた者が、性愛であれ酒や麻薬であれ、肉体的な渇望によってその方向とは真逆だと自覚される方向に引きずりこまれると意識した時の苦しさである。

その葛藤と戦ううちに突き抜けて開かれる境地もある。

MJを支えていたのは二度にわたってパリで彼の前に現れたイエスの姿であり、神が絶対に彼を見捨てることはないという愛の感知と確信だった。

それなのに、時代のもう一つの悲劇が、MJを襲った。(続く)
by mariastella | 2016-10-12 18:24 | 宗教
<< マックス・ジャコブの回心 その17 マックス・ジャコブの回心 その15 >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

by mariastella
以前の記事
2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 11月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧