出光美術館に「大仙厓展」に行った時、久しぶりにルオーのイエス像などを見て、あらためて、彼の正面向きの人物像の表情は能面と同じだなあと思った。
日本で 金子賢之介神父の『風、いつも吹く日々』のカバー絵のイエスや私の訳書『自由人イエス』のカバー絵のイエスの顔が右半分と左半分では表情が違うというのが、直接能面からインスパイアされたものか、ルオーからインスパイアされたものか、あるいはルオーの発想がどこから来たのかなど私にはよくわからない。
能のシテは怒ったり迷ったり、絶望したり、成仏出来ていない状態で橋掛りを渡って舞台に出る時、顔の右半分の苦悩や煩悩を見せる。
でも旅の僧などによって慰霊してもらえると、最後は左半分の安らぎの顔を見せて退場する。
この世とあの世の境界領域はいつも両義的だ。
ルオーのこのピエロの顔なんて明らかで 、ピエロそのものの両義的な存在様式が分かる。
受難のイエスとなると、さらに人間と神の狭間にいるわけだから、能面的な諦念が顔の右側にあって、左に永遠の命の安らぎがあってもいいのに、左はむしろ固い決意、覚悟、希望を思わせるものがある。
ただしルオーの宗教画には、その左右の描き方が逆になっているものもあるから、 能面と橋掛りの関係は把握していなかったのかなとも思う。
出光さんはルオーの画の太い黒い輪郭線が禅画の墨絵と似ているという 認識があったそうだが、そこに能面の影響関係はあるのだろうか。
仙厓の世界とは対極にあるように思える。
もっと調べてみよう。とりあえず覚書。