これは
前の記事の続きです。
私の質問にいろいろ答えてくれたフランス人のエリート新司祭のように、社会的にも姿かたちも高スペックなのに、あえて「勝ち組」の道に進まず、弱者支援にやさしく情熱を燃やす若者のことを考えていたら、日本の湯浅誠さんのことを思い出した。
湯浅さんは路上生活者が生活保護を受けて住まいを見つけることができるように保証人になるシステムを作ることからスタートした社会福祉問題のリーダーのような人だ。
今は大学の福祉科でも教えているが、女子学生にすごい人気だというのも納得できる素敵な人で話し方も魅力的だ。
彼について、「視点は低く優しく、だが、理論的である。宗教的いかがわしさとも左翼思想の押し付けがましさとも無縁であることの新鮮さと安心感が、人びとの耳目を彼に向けさせる。」という評を目にした。
なるほど。日本で宗教者が弱者支援をしたら、「いかがわしい」と思われるのか。
確かに、キリスト教福音派などもハイチの地震などの災害地に入り込んで援助と布教をセットにしていた。
カトリックはさすがにそんなことはしないし、ましてフランスのカトリックは、そもそも「公共の福祉」などという概念のない時代に社会福祉活動を始めたグループだから、その活動に専念したいと思う人にぴったりかもしれない。
伝統があり、ノウハウがあり、インフラもネットワークも充実しているから。
同じくネットで検索したら出てきた
湯浅誠さんの対談記事で、プロテスタントの佐藤優さんが弱者を助けるのは人としての当たり前のことだと言ったことについてそれがキリスト教と関係があるのかもしれないと湯浅さんが述べていた。
その流れで、対談相手の香山リカさんが、
「でも、弱者を救う理由を、『神が見ているから』とか、『最後に審判が下るから』と説明するのは、キリスト教の内部でしか通用しないロジックですよね。」
などと言っている。
これって、キリスト教でなくとも、
「お天道様が見ている」
「ご先祖様が見ている」
「来生は畜生に生まれ変わる」
「地獄に堕ちる」
などという「教育的ロジック」なんていくらでもあるわけで、そういうレベルの「善行を施す」という促しは幸いなことにかなり普遍的だと思う。
それよりも、キリスト教の根幹には、救われるためにはあらゆる弱者に寄り添うことが大切だというだけではなく、その弱者の中にイエス・キリストを見る、という姿勢がある。
旧約の神がそれまで「預言者」を送ったり、預言者に直接語りかけたりしていたのが、突然、その「ことば」を受肉させて、か弱い赤ん坊の姿になった。人間の親に庇護されてやっと成長したその「神の子」は、スーパーヒーローになる代わりに、あっさり殺されてしまった。
弱肉強食の論理どころか、強者と弱者が覆って逆説をなしている。
「貧しきものは幸いなり」というだけではなく、
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(2コリント8,9)」
というのがキリスト教のキリスト(救世主)なのだ。
ともかくこういうベース、つまり上からの慈悲でなく最も低いところにへりくだって弱者に仕えるという前提のある社会でエリートが宗教者になって弱者救済に向かうことは、ある意味、伝統の一環をなしている。
キリスト教社会主義の伝統もある。
そうではない日本で、宗教家や左翼活動家の弱者救済がいかがわしい、押しつけがましいと取られるのだとしたら、エリートが弱者支援の道を選択するハードルは高いのかもしれない。
特に男性には。
女性はどうだろう? (続く)