クリスマス休暇で授業やレッスンがなくなったメンバーと、来年のコンサートに向けた新しいラモーの8曲を3日ほど集中練習した。
もちろんギタリスティックなものばかりを選んでいるのだけれど、ほんとうに、ギターの音で別世界が広がる。
それにしても、私たちはラモーのどんな小曲(すべてオペラの間奏曲とダンス曲)でも、研究し尽くし、議論し尽くし、試行錯誤を続けるのだけれど、その度に発見、驚き、感動がある。
時間に裂け目ができ、空間があらゆる方向に押し広げられる感じがする。
同時に、どうして世間の多くの人が、ラモーの曲を敬遠したり軽く見たりするのかという理由が分かってくる。
ずばり、ラモーのオペラを上演するオーケストラは、時間をかけないからだ。
リハーサル一回にかかるコストの問題だ。
ほとんどのオーケストラが、すごく少ないリハーサルで本番にかかる。
ラモーの世界は強靭で複雑な精神世界なので、弾く側も一定以上の「知性」を駆使しなくてはならない。
ラモーの秘密の一定線を越えなければ、時間の裂け目や空間の変化を感知できない。
前にも一度、ラモーにあってバッハにないものは「間」だと書いた。
バッハの曲を例えばチェンバロで弾くとすると、速いパッセージがたくさんあるし、構成も複雑で、何しろあらゆるところにびっしり音符がつまっていて、密度が異常に高いので、かなりの練習が必要だ。
けれどもいったん、指のメカニズムが動き出すと、後は楽譜がものを言ってくれる。
饒舌だ。
例えていえばフィレンツェの大聖堂のそばにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井を埋めるモザイク画だとか、「スペイン人礼拝堂」の、壁も天井も柱もびっしり埋め尽くしたフレスコ画を連想する。
そう、バッハの音楽は、「祈り」なのだ。神の造った宇宙をくまなく讃えようとする信仰の情念が沸き立ってすべてを埋め尽くす、という感じ。バッハは信仰者だった。それは間違いない。
それに対して、ラモーの音楽は、「頭脳」でできている。
無神論者の音楽だという人もいる。
無神論者というよりソリプシストかもしれない。
(ソリプシストについては
前に延々と書いたことがある。)
ラモーの音楽には「間」がある。
その「間」が、「間」ではない部分に意味を持たせる。
ラモーの膨大なハーモニー諭や数学体系の中には無限の要素があって、彼は神のように、好きなようにそこからいろいろ取り出しながら、組み合わせ、クリエーションを行う。
予測はできない。無からの恣意的な創造だから。
しかもそのベースには上機嫌がある。
『創世記』の神が天や地や鳥や獣や魚など創造するたびに、その後で
「神はこれを見て、良しとされた。」
と書かれているように、ラモーも、
「うんうん、さすがにぼくのクリエーションってなかなかいいよね」
と満足しているような、そんな感じだ。
粘土でいろいろなものを作っていく子供のように無邪気で明るい。
けれど、そのベースには、絶対の自信とノウハウと全能感がある。
「祈り」とは言えない。
ラモーを弾くには、そのクリエーションに参加しなくてはならない。
「協働」というやつだ。だから、彼の創造の秘密を徹底的に探らなければならない。
ラモーの「間」を理解して迫ると、クリエーションが理解できる。
ラモーを弾くのは祈りというより、恵みだ。
ラモー研究者といっしょに何十年も弾きながら、いつも、褪せることのない驚嘆を分かち合える私は本当に恵まれている。