次に、フランスのイスラム過激派対策を誤らせた「イスラモフォビー」(イスラム嫌い)というコンセプトについて。
イスラモフォビーは「一部の過激派やテロリストとフランスの穏健なムスリムを混同するな」という言い方によって、実は巧妙に「イスラム批判」と「ムスリム差別」を混同している。
この二つは別物だ。健全な宗教批判は表現の自由に属するが、ある宗教に属する人をまとめて批判するのは「差別」という「法的な罪」を構成する。
宗教は批判の対象となる。宗教とはシステムであり、逸脱することもあるし、権力によって取り込まれて利用されたり変質したりもするからだ。
宗教は文化現象の一つでもあるから、ある宗教の価値観が他の文化圏の価値観とは合わないことも当然ある。イスラムの価値観がフランスの共和国の価値観と合わないと言って批判することは自由だ。
けれども、ある人がイスラムに帰属しているからといって偏見を持ったり、蒙昧だと言ったり、アラブ風の名や風貌を持っているというだけで差別することは、それこそフランスの価値観に反する「罪」である。
ある国の指導者のやり方やイデオロギーを批判することは健全だが、その国のすべての国民をまとめて中傷するのはヘイトスピーチである。
ある人がある国に生まれることは選択によるものではないし、イスラムの場合はムスリムの父を持つ子供は自動的にムスリムとなり、棄教は死に値するとされているのだから、これも選択の余地はない。
ニーチェはユダヤ主義を激しく批判したが、ユダヤ人差別主義者ではなかった。(続く)