(これは
前の記事に関しての補足です。)
2001年に『不思議の国サウジアラビア』という新書(文春新書)を出した私には、このことが実感を持って分かる。本を出した時点ではまだ9・11が起こっておらず、私がサウジで取材したことを書くにあたって王室と宗教の批判はしない、というのが条件だった。
私は女性だから、全身を隠すアバやの着用はもちろん、女性が運転もできず一人で外出もできないような実態も「体験」できたが、それでも、それがコスプレでテーマパークにいるような非現実感だった。
サウジの女性はフランスの底辺の女性に比べて「不幸」に見えなかった。
「貧乏」ではなかったからだ。
彼女らはすべてを手に入れられた。
メイドもシッターも運転手もいる。
「自由」がほしければパリやロンドンに行けばいい。
シャンゼリゼのブティックで好きなものを好きなだけ買い、シャンペンだって飲める。
自国でも、たとえ何があっても、子供と同じく「責任能力」がない存在なのだから、ある種の自由がある。
「監督責任」は父親や兄や夫にあるのだから。
この自由が倒錯的なもので突っ込みどころがいくらでもあることは当然だ。
けれども、彼女らの暮らしぶりの「豪華さ」「優雅さ」と、男の目を気にしないで済む、ある意味「女子会」のような生活の楽しさなどを見ていて、原則としての怒りとかイデオロギーとしてのフェミニズムとか、自由とは何なのか、分からなくなってきたのも事実だ。
その後、私が新書の中で書いたように、若者が増えすぎて失業の問題も起こり、生活水準が維持できなくなったり、アメリカでのテロが起こったり、中東情勢が険悪になり、インターネットによるグローバル化はさらに進化し、サウジアラビアの状況は変わった。
けれども、「女性の自由と満足度と金」の関係は、今も答えのない自問として私の中に残っている。
ちょうど、サウジアラビアの王様が46年ぶりに日本に来たとかで、その桁外れの贅沢さや経済効果がネットに上がっている。
宗教とか、政治とか、テロとか何の関係もない「マネー」だけがクローズアップされる。
「マネー」しかもう見えない。
日本企業をサウジに進出させて石油依存からの脱却を援助するとか言っているけれど、そのうち日本はイスラエルにだけではなく、サウジにも武器を買ってもらおうとするのではないか。軍事産業はいつも一番おいしい。
ああ、武器とは言わないで今じゃ「防衛装備」って言うんだっけ。「戦乱」だって、「防衛装備同士がちょっと衝突した」だけだったりするみたいだし。