リベラリズムについて。(大統領選とカトリックの記事の続きはこの後になります)
冷戦時代は、共産圏に対して「自由諸国がリベラル」というイメージが刷り込まれていた。
冷戦が終わってからは、保守と革新の「革新がリベラル」というイメージが出てきたので混同されることが多い。
『アメリカにNOと言える国」でその違いを説明したけれど、今、ソシアルとソシエタルも混同されてきたのでもういちどおさらい。
ソシアルとソシエタルについては
前に一度書いたことがある。
ソシアルは国家が自国内の弱者を支援したりアシストしたり、企業主が労働者の権利を保護したりする。共同体内でも格差をなくす方向が目指される。
冷戦時代に自国内の「親・社会主義」勢力を牽制するために、「自由諸国」でも、社会民主主義を採用するところがあった。フランスは特にそれが顕著だった。冷戦後にその必要がなくなったので、歯止めのない「新自由主義」が弱者を切り捨てるようになった。
だからこそ、その「弱者」の怒りを代弁するポピュリズムが目立つようになってきたのだ。
で、リベラリズムについても、本来、
保守のリベラリズムは経済、
左派のリベラリズムは文化、
の分野だという棲み分けがあった。
保守は、規制をどんどん撤廃してグローバリゼーションを進め、結果として格差を拡大させ、左派は表現の自由、アートのグローバリゼーションを応援する。
マクロンのリベラリズムはみんなを集める中道だ、と自称するだけあって、その両方を兼ねる。
ル・ペンの保護主義も、経済と文化の両方を兼ねている。
これが、従来の保守や革新のシンパが、
今回はどちらにも与することができない、棄権する、白紙投票する、
などと言っている理由のひとつである。