とても不思議なことがあった。
私は「シンクロニシティ」というのをあまり信じない。
「偶然」に意味をこじつけているような場合が多いからだ。
うまく使うと「おおこれは神のお導き」、「あなたはやっぱりこうなる運命だったのです」のようにいわゆるマインド・コントロールに悪用されそうな気がする。
でも、夕べはあまりにも意外なことがあったので、つい書き留めておきたくなった。
いわゆる共時性という意味のシンクロニシティとは少し違うけれど。
それは、ちょうど、読売日本交響楽団のプログラム誌「月刊オーケストラ」のためにアッシジの聖フランチェスコについての原稿を書き終えた時のことだ。メシアンの同名のオペラのコンサート・ヴァージョンが秋に演奏されるにあたっての企画だそうだ。メシアンについても言いたいことはいくらでもあるけれど私の担当はとりあえず聖フランチェスコの今日性ということで、参加させていただいた。
朝もキリスト教関係のことを読んだり書いたりしていたので、ちょっと気分を変えたくて、わりと近くにあった日本語の本を手に取った。
北川省一著『良寛游戯』(アディン書房刊)という本。
厚紙のケースから取り出して、本体を机の上において、なんとなく、フランス語の本の癖で、右から左に開いてしまった。すると、漢字がたくさん並ぶページの中ですぐ目に飛び込んできたのがそこだけカタカナが目立つ
「聖フランチェスコ」
の文字。
いやあ、目を疑った。
結びの部分であり、聖フランチェスコの晩年と良寛の晩年を重ねている。
さらに読んでみると、「終わりに」の部分に、この本は良寛を、荘子とニーチェを通して解釈したもので、エピクロスや聖フランチェスコも引き合いに出したのは著者が西欧文学を学んだ人だからで、良寛を宗門や郷土史の枠から解き放った人間の一原型として定立したかったからだとある。
それにしても、では本文にどんな風にフランチェスコが出てくるのかとパラパラと繰ってみたけれどそう簡単にはもう目に入ってこなかった。
さらに、40年前に出版されたこの本を書いたときの著者は今の私と同じ年。
wikipediaで調べると、東大の仏文を出た人だった。息子の北川フラムさんは、私の好きな直島の地中美術館の総合ディレクターで、娘婿がフランスのラ・ヴィレットの設計コンペにも入賞した原広司さん(京都駅ビルの設計者でもある)だった。
キリスト教における聖フランチェスコ、仏教における良寛、確かに似ている。
もっと言うと、良寛はナザレのイエスにも似ている。
すごい。いろいろなイメージがわいてきた。
北川省一さんは復員後共産党に入り離脱した人のようで、フラムさんは藝大全共闘で孤軍奮闘して中退したそうだ。宗教、戦争、革命の関係を書いている最中の私の琴線に触れる予感がする。
北川省一さんはもう亡くなっている。イエスもフランチェスコも良寛ももちろんもういない。
でも人は本によって、言葉によって、自分の人生よりずっと広く長く、自分の世界よりずっと大きく広く生きることができる。