妖しさをあまり感じさせないウィーンのバロック教会。
しいて言えば、パリのバロック教会と似ている。
カールス教会と同時代なら一区のサン・ロック教会あたりだし、四区のサン・ポール・サン・ルイ教会とか、六区のサン・シュルピスあたりもバロックっぽい。
ただ、教会はたとえ宗教戦争がおさまった17世紀前半のバロック期に建設が始まったものでも、完成には時間がかかるし、その上、フランス革命によっていったんカトリック教会が閉鎖されたり略奪されたり、壊されたり、転用されたりした後で、再建されたり改築されたり増築されたりと19世紀末までの複合的なスタイルになったりしている。
フランス・バロックの頂点の時代は絶対王権の頂点でもあった。王たちが一応自分たち一族の繁栄や自分の死後の救いなどは考えて立派な聖遺物容れを作らせたり、立派な聖堂を造ったり、自分たちの冠婚葬祭を立派にするために宗教の演出に予算を惜しまなかったりしたのも、本音でもあり、事実だろう。
ただ、彼らの求めたバロックの過剰さには、意外とシンプルなものがある。金ぴかで精巧で贅を尽くしているというのは確かだけれど、どこかに余裕があって、「切羽詰まったもの」がない。バロック時代、ルイ王朝の敵は周りを囲むハプスブルク家だけだった。ハプスブルクもカトリックだ。
だから、「カトリックかどうか」で張り合う必要はない。
ハプスブルクも神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねていたし(他の選挙候もいるが)、ルイ王朝も王権神授で歴代の王は聖油を注がれ奇跡の治癒までやっていたから、どちらも、ローマ教皇に対して張り合うというよりただ「自分と自分の子孫の救いファースト」で神さまに金をつぎ込んでいた。
つまり、プロテスタントに対抗してのバロックという戦略も虚勢はない。
それに対して、例えばプラハのバロック教会は、プロテスタントのメンタリティが根付いた地域が、無理やりハプスブルク家に組み伏せられたものだから、ハプスブルク家ににらまれないためのアリバイとしてしっかりカトリックの信仰を強調しなければならなかった。
だから、見せバロック。
とにかく豪華絢爛のバロック。
そこに欺瞞とルサンチマンをいっしょくたにしたような、開き直ったような、ただただ微に入り細に入りアートを追求したような、いろいろな職人の意地を塗りこめたような、バロック。
それだけではない。
ウィーンやパリではフリーメイスンやバラ十字団が吸収していたような「秘教趣味」を、サロンや宮廷で堂々と展開できるのか、教会の中に潜めるのかという複雑なニュアンスもある。
モーツアルトはもちろんプラハのフリーメイスンロッジにも出入りしていたけれど、パリやウィーンとは、カトリック教会との関係が微妙に違う。
ババリアのイルミナティとカトリックとの関係もまた違う。
パリやウィーンのバロック教会と、プラハやババリアのバロック教会の空気の違いにはそれが関係しているというのが私の仮説だが、これからいろいろ検証していくつもり。