日本に着いてから雨と寒さ、台風と総選挙のニュースとに振り回されて落ち着かなかった。ようやく台風も去り、大きな予定変更もなく、もうすぐ新幹線で厚狭に出発する。(これを書いているのは23日の朝)
フランスでもこの台風が報じられたらしく心配するメールをたくさんもらった。
トリオのメンバーも4度目の同じ時期の公演で初めての長雨と台風に目を丸くしていた。
選挙では沖縄のことが気になった。辺野古埋め立てやヘリ墜落の画像が映されるたびに胸がつまる。
22日は川口市の立派なリリアホールに「バッハとルター」というコンサートにご招待いただいた。さすが新国立劇場の合唱指揮者の三澤洋史さんだけあって、合唱のバランスは完璧だった。アマチュアコーラスが大人数だと音量がありすぎてまいってしまうことが多いのだが完全に三澤さんのカリスマに統制されている。
全体も、バッハやルターというより、三澤さんの信仰と祈りと音楽美学の結晶のようで、三澤さんからのプレゼントという感じだった。
私たちフランスバロック脳のメンバーとしては、管弦楽組曲が、カンタータと対照的な「宮廷音楽」として前座のように紹介されたのはちょっとフラストレーションだったけれど。
また、カンタータは、私は日本語の字幕を見て、メンバーのM はドイツ語を読み、Hが音楽に集中という立体的な聴き方をしたので興味深かった。
それにしても、こんなコンサートに参加する人のほとんどは経済的にも健康上にも問題なく、余裕のある人だと思う。
歌詞にあるような罪深い私に救いを、と必死に訴えるような強迫観念とは縁が薄いのでは、と思った。
正直、今の日本人がバッハをカルチャーとしている意味ってなんだろう、とさえちらりと思う。
バッハはフランスバロックもよく研究していたが、この組曲のフォルラーヌを聴けばわかるが、このダンスにも、アルト(ヴィオラ)の16分音符で埋め立てようという感覚は、フランス的洗練(文字どおり、洗い尽くして、本質だけを残す)には耐えられない構築強迫がある。バッハには「間」が耐えられない。
いつも言っているが、フランスバロックは「間」や「空(くう)」と、そこに軽やかに消えていく装飾音が命で、そういう「間」を味わう感性というのはむしろ日本人的である。
ドイツは連邦国で、今でも旧領邦国家間の確執がしっかり残る。
そしてプロテスタントの峻厳さが加わる。
それに比べて、実際はともかく「単一民族」幻想のある日本や、中央集権の「太陽王」幻想のあるフランスって、いわゆるハイコンテキスト、以心伝心の幻想もあって、ひたすら洗練させていく美、というのが成立する。フランスの宮廷文化は実は日本の町人文化と似ているのだ。
もちろんどの国のどんな人でも、戦争やら生老病死の危機は免れないから、それこそいざという時には神仏に必死にすがる、という心情はユニヴァーサルではある。
でも、バッハのカンタータは決してユニヴァーサルではないと思う。
三澤さんの情熱にユニヴァーサルな訴求力があるのと、ルターとバッハのカンタータに普遍性が果たしてあるのか、というのは別のような気がする。