「主の祈り」の解釈の変わり種ひとつ。
一応今の日本のスタンダードな訳をもう一度コピー。
「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。」
父への呼びかけの後に七つの願いがある。
悪からお救いください。
これを後ろから読むという提案。(『救いの梯子』Alain Noëlよりイエズス会のPeter-Hans Kolvenbach神父の解釈)
後ろから梯子を上っていく。
まず、エジプトから逃れ、荒野で様々な誘惑に遭う、
次に、赦しのステージへ。
次にエジプトを脱出したユダヤの民に天から与えられて40年間の主食となったマンナを求める。
最後にようやく、神のみ旨により約束の地、神の国に到達して、
神の名の秘跡と交わる。それが「私たちの父」という呼びかけ。
というものだ。
神を「私たちの父」と呼ぶことの特殊性が分かる。
たいていの神々は支配者であり、超越した存在であり、人間とは異種の優越者だが、その神を「父」とみなす。つまり家族だ。
日本の国家神道が国民をすべて「天皇の赤子」としたのは一神教にヒントを得たものだと言われているが、確かにユニークで効果的な形容だ。
なるほど。(続く)