『沖縄と核』
9月に放映された分の『沖縄と核』をYoutubeで視聴した。
ネットにある賛否両論の感想も読んだ。
普通の「本土」の人にとって、沖縄は、地理的、歴史的にもそうだけれど、心理的にもいかに「遠い」のか、と思い知らされる。
この秋に日本に行った時に、一週間おきに二度も台風に遭遇して困った。楽器を持っての移動のことなど気になって、何度も天気予報をチェックした。
そのたびに、「今、那覇は暴風圏に入って…」などと南国風の街路樹が強風に揺れる映像が出てきた。
そしてそのたびに、私は、「ああ、まだ沖縄か、まあ、東京に来る頃には勢力が落ちているだろうな」などと希望的観測をしていた。
その奥には、「東京直撃だったらいやだけれど、まず他のところに上陸して被害を巻き散らして勢力が弱まればいい」というような気持が無意識にあったような気がする。
東京から見る沖縄の「遠さ」はロンドンにとってのスコットランドやアイルランド、マドリッドにとってのカタルーニャどころではない。
この「遠さ」があるからこそ、平気で「核の傘」とか「抑止力」とかの「本土防衛」が成立したのだろう、と今さら考えさせられる。
第二次大戦の証言者はどんどん少なくなっているけれど、キューバ危機の頃の証言者はまだ見つかって、それでもみな高齢だからか、恐れることなく証言しているのは貴重だ。「沖縄の人は知る権利があると思う」と言っているのが印象的だった。
日本に米軍基地がなければ、北朝鮮や中国が日本を攻撃する必然性はないに等しい、という考えは確かにそうだと思う。
北朝鮮の今の核開発は対アメリカのもので、日本を敵視するだけならのすでにノドンだのテポドンがある。
「核保有国の中で核兵器を使って他国を恫喝、攻撃する国は米国だけだ」という北朝鮮の反論も実情に合っているのかもしれない。
すでに、ソ連、中国という「隣国」との核戦争の危機を切り抜けたのに、今のロシアも中国も核兵器を廃棄はしていない。
軍産複合体の利益を考えずに純粋に日本の「平和」を考えるなら、少なくとも、
東北アジア非核地帯条約のようなものが実現すればよかったのに。
いや、過去形で書いてはいけない。
そして、たとえ「東北アジア」が非核地帯になったとしても、世界のどこで核兵器が使われてもそれは環境破壊と人類絶滅につながるのだから、やはり地球全体を「非核地帯」にするという視野を失ってはならない。
「暫定的」であるべき核の抑止力、核の均衡などを「偶像化」してはならない。
どんなリアルポリティクスも、最も小さい命をもリスペクトするという「あるべき姿」を見失ってはならない、とつくづく思う。