昨年のクリスマスに寄せたフランスのプロテスタントの言葉に、
イエスの誕生譚(ノエル=クリスマス)とは、
何かおかしな妊娠、
恥辱を克服した夫、
旅先の馬小屋での出産、
貧しい羊飼いたちが最初に知らされる主の誕生、
博士たちが貧しい赤ん坊の前に跪く、
権力者による幼児殺害命令、
着のみ着のままでの家族の逃避行、
etc...。
そう、これは今の私たちの生きる世界だ、
と書いてあった。
パリのユダヤ教の大ラビはこう言っていた。
2015年のシャルリーエブド襲撃に続いたユダヤ人スーパーの人質事件を振り返り、あの時、人々が、「私はシャルリー」というように「私はユダヤ人」と言って共感を示してくれたのは感謝している、でも、その年の11月の多発テロで、パリのカフェやコンサートホールで不特定多数が犠牲になった時に初めて、人々は、ユダヤ人でなくてもみなが標的になるということを理解した。
他者への「同情」や「連帯」と「当事者」意識との違い、はどう埋められるのか。
そして、誰もが真に当事者になるためには、みながアトランダムに犠牲者になるかもしれないという脅威が必要なのだろうか。
地震の起きないパリに住んで日本やハイチの地震に同情する、
原発施設のない地域に住んで反原発を口にしたり、原発の必要性を説いたりする、
米軍基地のない場所に住んで沖縄の人に同情したり我慢しろと言ったりする。
本当は、この地球の誰の身に起こる脅威でも、すべての人にふりかかる脅威なのだ。
さまざまな国や民族や人々がばらばらで敵対しているように見え、環境は破壊され地震や洪水などの自然災害も絶えないように見えるけれど、主義信条の対立する人も脅威となる自然も、実は根っことなる命でつながっている。
めぐる月日も、夜空の星も、どんな人もおなじように吸っている空気も、何一つとして誰かが力によって奪ったり獲得したりしたものではなく、私たちに平等に与えられたものだ。
私たちはそのことに納得もできるし、思い描くこともできる。
すべての人が共有する脅威という形ではなく、すべての人が共有する感謝や希望という方向に想像力を広げよう。