今、今年初めのカルテットの練習から帰ってきたところだ。
今週は月曜日にクラシック・バレエ、火曜日にコンセルヴァトワールでのトリオの練習、水曜日に生徒たちが来て最初のレッスン、木曜にバロック・バレエの最初のレッスン、と続いて、今、コンセルヴァトワールで弦楽カルテットに行ってきたところ。
今日から始めた新曲はテレマンのドン・キホーテ組曲。
弦楽協奏曲だけれどそれをカルテット用に編曲したもの。悪くない。
今日は序曲と、風車に突撃するドン・キホーテの部分を演奏した。
実は最初にモーツアルトとトルレリをさらった時はあまり気分がのらなかった。
でも、このドン・キホーテで、一気に正月、というか、新年のスタートという気分になれた。音楽療法って本当にあるなあ、と今さらながら思う。
ピアノの生徒の1人(思春期の若者専門の心理療法家)と、バロック・バレエの仲間と、例のme tooの話をした。
フランス人的にまず驚くのは(日本人も同じかもしれないけれど…)、あんなに強そうに見えるアメリカの女優達とかが、今になってセクハラを告発し始めたことだ。セクハラという言葉はポリコレ(ポリティカリーコレクトネス)と同じでアメリカ発であり、ピューリタンのアメリカはいろいろ厳しいし、女性も好戦的で黙っていない、というイメージがあった。「自由の国アメリカ」というイメージはフランスにも一応浸透していたのだ。アメリカの二枚舌、ダブルスタンダードというのも、「フランスの常識」の一つではあったけれど、女性差別や人種差別がいまだに深刻な「今日的問題」というのには軽くショックを受ける人が多い。
それでも、ル・モンド紙のフランス女優らの声明の文面が、突っ込みどころが多すぎたのは残念だった。何につけてもよく言われるのだけれど、新たな法律を作らなくても、現行法できっちりと対応できるはずなのに死文化しているものが多すぎる。
確かに、セクハラなど性的な分野においては線引きは難しい。
日本における痴漢冤罪というのはすごいなあ、これでは確かに、男性は大変だろうといつも思っていた。それでなくとも、性関係において確かに合意していたはずの女性が、復讐など何らかの理由で相手を陥れようと思えば、「合意がなかった」と言えば認められる可能性があるのならこわい。
だからいろいろ考えていくとやはり一般論では言えない。
アングロサクソン型の犠牲者主義、加害者と被害者の二元論というのも不毛で、全体主義や原理主義に流れる危険性もあるのだけれど、
フランス風ギャラントリーの文化も、確かに差別の裏返しという側面もある。
私に対して「日本人はスーペリアな民族だ」というお世辞を言うフランス人がいる。
それはすぐに不愉快なものではない。
でも、そういう言い方は、
「自分は民族をランク付けする立場である」
「日本人より劣る民族がいる」
という含意がある、と言われてもしょうがない言い方だ。
同様に、たとえ、お元気ですね、お若いですね、おきれいですね、などという、耳に心地よいお世辞だって、「元気で若くてきれい」なのがよくて、「病気だとか年寄りだとか障害がある」のが悪い、という含意があるだろう、と言われると何も言えなくなる。
すべての言葉も動作も、その意味は、時と場合と相手との関係によってはじめて決まる、としか言いようがない。
けれども、その中でも、それが、弱い立場にある人を傷つけるような「力」として働くものはしっかりと分別して正していかなくてはならない、ということなのだろう。
(今日の予約投稿にリンクしておいたチベットの高僧の葬儀だが、やはり参加することにした。彼と家族的な関係を築いてきた一人として、彼を看取った人の哀しみに寄り添うことは必要だと思ったからだ。そのうちレポートします。)