ペール・ラシェーズの葬儀から帰ってきたところ。
すぐに載せたかったので、今日のブログは予約投稿せずにあけておいた。
うちを出る前に、バッハの無伴奏五番のサラバンドを弾いた。人生には絶対にバッハ、という局面があるんだなあ。
絶対にハ短調というのも。
最後の上昇アルペジオで少し天に心が行くが、サラバンド後半のレのフラットなど、もう「ずしん」というほかない。バッハに珍しく、暗い底に沈められる。
ラモーはどうなんだ、と言われるかもしれないが、ラモーを誰かそばで弾いてくれるなら、もちろん癒される。
でも、こういう気分の時に自分で弾くにはハードルが高いのだ。
そして、生の音が必要だ。
昔はショパンの葬送行進曲の中間部を弾いて癒されていたが、今日は、バッハ、だった。
で、ペール・ラシェーズ。今日は雨風が強いという天気予報だったのに、火葬場についたら青空。
さすが、ゲンラ。
ここは上が百席の無宗派セレモニー堂になっている。でもやはりフランスだから、カトリックの聖堂風のスタイルでステンドグラスなどがある。
私は祭壇に向かって右の前列家族席の四番目に座る。後ろはフランス人を中心にゲンラの教えを受けた人や、チベット仏教コミュニティに出入りしている人たち。
向かって左はスイスのチベット寺院からこの葬儀のためにやってきた20人ばかりの僧侶たちで、師に捧げるお経というのをずっと唱えていたが、リズミカル。
その僧侶たちの後ろに、パリのチベット人コミュニティが全部来たんじゃないかと思うくらいたくさんのチベット人が座り、座れない人たちは後ろにぎっしりと立っていた。
リンポチェが延々とゲンラがいかに偉大な僧であったかを語る。
「お別れ」は、棺の上にカタという白い布や、オレンジや刺繍の入った黄色い布などを一人ずつが広げて重ねる。その後で棺に額をつける。
リンポチェは棺の前で五体投地をしていた。
葬儀が終わった後、帰り支度をする僧侶たちの向こうにステンドグラスが見える。
これが祭壇。
お供えのお花を分けてもらったので、うちにも祭壇を作ってみる。
後ろの扇は般若心経。ゲンラが私の父と一緒に唱え、父の亡くなった後にも唱えてくれた。小さな文殊菩薩は高野山で買ったもの。
1959年にダライ・ラマと同時にチベットから脱出したゲンラの一生は、チベットの生き歴史だ。
私が彼の言葉を最初に紹介したのは、『ノストラダムスの生涯』のp256あたりで、予言や占いについてどう思うかという質問に明快な答えをもらった。
『パリのマリア』に出てくる超能力の話のチベットの空中浮揚も彼に聞いた話をもとにしている。
ゲンラがフランスの若者に講義をする時、質問への答え方がすばらしかった。
インドの僧院でフランス人の若い女性が40年前にはじめて彼に仏教を講義してもらった時、実はゲンラにとっては西洋人の弟子は初めてだった。
けれども実にわかりやすく、相手に合わせて教えてくれたという。
その時は、そういうものなんだと思っていた弟子は、後に、ゲンラがいかに「相手を見て教えを伝える」天才だったかを理解する。
日本の若者も今はほとんどフランスの若者と同じくらい仏教に無知だろうが、仏教的教養が一応ベースにあると思われている日本ではなかなかすなおに質問できない。
ゲンラの講義での質疑応答がすばらしいので、ぜひ日本語に訳して日本の若者に知ってもらおうと思って企画をもちかけたことがある。
その時は、編集の方に、それよりも私の言葉で解説してほしい、と言われて、そのままになった。
時は過ぎ、今の時代には、ネットでも発信できる。ツォンカパの『菩提道次第論』講義だ。彼の講義録を訳していつか発信してみたい。