(これは昨日の続きです)
コンテンポラリー・アートについて前にこの本を紹介した。
それに関連してフランスのインテリ・ブルジョワ・アーティストを揶揄した映画のことも。
もともと、プロの美術評論家は、ある作品に先行する参照元を探し出すという手続きを経る。現代アートについても、ヨーロッパの美術の掲げた「普遍的な美」に対して、アメリカが、そこから情念を廃して「資本主義」の中で「美」をどのようにデザインするかを知的に開拓してきた歴史の中に位置づけようとする。
けれども、今は、もう、情報空間の質も変わったし、写真、ビデオ、アニメ、AIまで、媒体も発信の仕方も変わった。コンセプトを練り上げてメッセージを伝えるための設計アクセスも「万人仕様」になったので、コンセプトなしでも、メッセージなしでも、知的な努力なしでも、「インパクト」だけを誰でもクリエイトできる。
テロの煽動までデザインできてしまう時代だ。
今回のMoMA in Paris ではじめて見た媒体が、イアン・チェンのAIアニメーションだった。火口に住む部族にエコシステムと社会構造を与えて、環境が変わればどうなっていくのかというシミュレーション・ソフトで、一度始まると勝手に展開していく。シャーマンも出てきて、神や宗教の誕生も見える壮大な三部作《エミッサリー(使者)》の第一部が今回上映されていた、といっても、始まりも終わりもない。
こういう「場」に自分が参入できるというわけであろう「ゲームの世界」のただならぬ魅力もはじめて実感できる。
画像はこんなのを見つけたがあの実は不気味な感じはうかがえない。
ヨコハマ・トリエンナーレのことを思い出した。
もうずいぶん行けていない。
なつかしくなって、前に行った時のブログを読んでみた。
そこに、「直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。」という言葉があった。
よほど気に入ったらしく、次のトリエンナーレの記事でもまた引用している。
今、思うのは、「遍在」と「普遍」は違うなあということだ。
エレガンスを知るには、まず、今自分がどこにいるのかを知らなくてはならない。
(続く)