(昨日の続きです)
音楽のインスタレーションでおもしろいものがあった。
「空間を音で彫り刻む」というのがコンセプトで、インパクトはすごい。
吉井秀文さんの「彫空の本」が私の手元にある。
空間を刻むというコンセプトも好きだし、それが常に変化するということも、私の手の中で私の手の動きがそれに参加するというのも好きだ。
泡と泡のせめぎ合いを見ていると、その中に自分が入り込んでしまう錯覚に陥る。
音楽の場合、もちろん、音楽を演奏する人は、空間を音で裂くことや、満たすことを実感している。
空間に音を積み上げ構築していくタイプの音楽もある。
でも、彫り刻む、というのはありそうでない感覚だ。
で、変則的な天井も高い、かなり広い空間で、40台のスピーカーが、周りをぐるりと取り囲んでいて、その一つ一つが、40人のコーラスの一人一人の声を近くでひろったものになっている。
ソプラノはボーイソプラノで、全部で五声部8人ずつの、16世紀のモテットのアカペラ。スピーカーは立っている人の大体耳の高さに位置するので、一つ一つのそばに行くと、自分がその歌い手の場所で全体を聞いているような感じもする。
で、臨場感あふれる、と言いたいところだが、四方から中央に向かって声が放たれるので、それぞれのエコーもあり、現実にはあり得ないシチュエーションだ。
「アートにおいて特権的な鑑賞ポイントは存在するのか」、という問いがメッセージなのだろう。
システィナ礼拝堂の天井画を見る時、私たちはどのポジションに誘われているのだろうか。
「ディティールに近づくこと」と「全体を受けとめること」の間を選択し行き来することの自由によってもたらされるセンセーション。
真ん中のソファに座って聴くと非現実的だ。目をつぶっている人が多い。視覚情報をカットしないと脳が方向性をどう処理していいのか迷うからかもしれない。で、そうやって聴いていると、教会の葬儀ミサで、自分が祭壇前に置かれた棺桶に入って聴いている気分になった。実際は棺桶の中で聴いても四方からは聞えてこないだろうけれど、方向性を失うので、身体感覚が消える。音に刻まれるのはこちらの体で、そのまま「昇天」しそうだ。埋葬されているのかもしれない。墓所を囲んで人々が歌ってくれている。うまくいくと、天使たちの歌声で、それに押されてやはり魂は天上に?
死んでからは聞えないかもしれないから、それなら死の床で聴きたい。安楽死施設にこういうオプションがあればいいのに、とかつまらないことも考える。聴覚情報のコンテンポラリー設計というのはやはりすごい。