朝市に行ったら、野菜を売っている人で、「トマト、3キロ、2ユーロだよ」みたいに叫んでいる男がいた。
30歳くらいかなあ。
朝市ではこういう掛け声はあちらこちらで飛んでいるわけだけれど、その人の声はすばらしかった。
地声なのかと思って聞いていると、同じブースにいる人にアラブ語かなんかで話しかけている時は静かな穏やかなソフトな声。
ところが売り声になるとすごい。
音量もすごいのだけれどその出方の密度がすごいのだ。
発せられた声がまとまって形をとって、力と豊饒さと質感がある。
ほれぼれするとしか言えない。
耳の錯覚かと思って他の人たちの売り声にも耳を傾けたけれど、まったく普通の大声かだみ声か、怒鳴り声かだ。
その人の声ならどんな大舞台でも全ホールに朗々と響き渡るだろう。思わず顔をじっと見た。
そこに、声楽家か役者のスカウトマンが行き合わせたら、すぐに声をかけただろう。
この人の声と発声は、普通の人が訓練してもなかなか得られないものだ。
私はもちろん何も言わなかったけれど。(トマトは買った)
こうやって、朝市で野菜を売っている人の中に、「声」の賜物を持っている人がいる。
この人が子供の時に音楽院のコーラスのクラスに通っていたら、即、奨学金をもらって歌か演劇の道を勧められると思う。
思えば、彼らの中には、特別な絵の才能のある人や数学の才能、スポーツの才能のある人だっているだろう。
難民キャンプの子供たちだって、シリアで爆撃されている子供たちだって同じことだ。
テロリストの中にだっていろいろな才能を持っている人がいるだろう。
才能は平等ではない。
けれども、機会の平等がなければ、どんな才能も生かされない。