長崎の浦上教会の瓦礫から発見された有名な被爆の聖母像というのがある。
こういうものでとてもインパクトがある。
信仰の場所で、「聖像」として崇敬の対象になっていて、しかも「神の母」という女性像が破壊された姿はなんとも痛ましい。
今はカトリック教会では復活祭の前の四旬節で、イスラム教でいえばラマダンのような「節制」の期間なので、施しをせよという伝統で、あちこちから寄付のダイレクトメールが来る。
その中にショッキングなものがあった。フィリピンの教会再建のための寄付の呼びかけだ。
フィリピンのミンダナオ島で、昨年、イスラム国系の過激派テロリストと政府軍の間で激しい戦いがあった。10月に首謀者がすべて殺されて、「終結」したとされる。フィリピンと言えばアジアでとびぬけてカトリック人口が多いことで知られているけれど、ミンダナオだけは別で、昔うちに通っていた家政婦さんがミンダナオに残した家族のことを心配していたように、前から、ムスリムとの間に緊張関係があった。そして、今回の戦いの後でマラウィのカテドラルに戻ったカトリック信徒は、聖像が無残に破壊されているのを発見した。
イスラム過激派は、キリスト教に限らず、イラクやシリアの古代遺跡や墓所を破壊している。
修復や復興は、もう不可能なものもたくさんあるだろう。
爆撃で破壊されるのももちろんひどいのだが、日本で明治の廃仏毀釈の時代に破壊された仏像もそうだけれど、偶像であれなんであれ、「人の形」をしたものを憎しみをこめてわざわざ壊すという蛮行の結果は見ていて気分が悪い。
たとえ「独裁者の銅像」などでも、革命などの後でよってたかって引きずりおろされたり倒されたりするのを見るのも好きではない。
で、マラウィの聖母のこの姿。
キリストの磔刑像もひどい目に合っているけれど、磔刑像はもうそれ自体が、残酷な屈辱系のシーンなのだから、「冒涜」の意味が錯綜している。
おかあさんだけは助けてあげたかった、という感慨を通して、戦争のすべての犠牲者に寄せる思いが実感として迫ってくる。