フレデリック・グロの『不服従』というこの本は数年前に90歳を超えたステファン・エッセル(彼についてはこのブログでもいろいろ書いている。例えばこれ)が書いてベストセラーになった『怒れ!』という本を別の形からアプローチしたものだと言える。
このyoutubeでも分かりやすく解説されている。
要約すると、 不服従というのは今や「人間的な行為の一つ」だ。なぜなら、私たちはあまりにも、「服従する」という型にはめられすぎている、服従しないことは、孤立することで怖い、という感情につながる。服従することが「みんなと同じ」という安心感を与えてくれる。
今は「不服従」を学びなおす時だ。もちろん、なんでも反抗しろという反社会性を煽るわけではない。ただ、「服従」の中には、「責任回避」という面があることに注目しよう。
「服従」して何かをするということは、しているけれど自分がその責任者でない、ということだ。
ここで取り上げられるのは、ナントの近くに建設予定だった新空港に反対してもう20年近く、「占拠」して反対運動をしてきた環境保護運動の人々の例だ。
(このブログでは前にこんな記事 を書いた)
彼らはそこで、小屋を建て、新しい暮らし方を実践した。
国は、経済効果を説明して、県民投票もして、建設を確定し、何度も強制排除をしようとしてきた。反対派は、国に対して、ゲリラのように罠をしかけ、道路を封鎖してきた。結局、政府がこの計画を断念した。この反対派に対して、いわゆる「プロ市民」だとか、黒幕がいるとかの非難もなされてきた。でも、結局、彼らの「不服従」が勝ったのだ。
大きな運動となる不服従の決意の前の段階には、「生き方」に関する決意、回心が必要だ。
それは霊的、倫理的な、内的な問いに依って立つ。非暴力というのが前提だ。
内的に恥だと思うものに対して不服従を決意する。例えば不平等や差別や環境破壊などだ。
それらに対して少しでも良心の呵責や怒りを感じるなら、それは、自分が既存のシステムの共犯であることを自覚した証拠でもある。
日本で、成田空港建設反対の三里塚闘争が死者まで出したことや、今の沖縄での辺野古基地建設反対の座り込みなどのことを考えさせられる。
このフレデリック・グロの本は、バカロレアの哲学の課題図書にもなっていることに注目したい。哲学者でパリ政治学院の政治学の教授でもある。
フランスは18歳で選挙権がある。それまでに、中等教育で哲学が必修であり、バカロレアで4時間の作文試験が課せられる。そこで「不服従」についても学ばされるわけだ。
日本では、官公庁でも、上からの指示だの忖度だのによって書類を書き換えさせられたり改竄させられたり、虚偽答弁をさせられたりする事件が次々に問題になっている。そのことを苦にして自殺にまで追い込まれる人もいる。
同調圧力の強い社会だとは分かっているけれど、だからこそ、「不服従」の学びについてみなが考えてほしいとつくづく思う。