L'art de croire             竹下節子ブログ

フランスのテロと英雄と「無戒」の時代

3/23にカルカソンヌの近くでモロッコ生まれのテロリストがISの名のもとに、車を奪い警官に発砲し、スーパーマーケットに押し入って客と従業員を射殺し、居合わせた人全員を人質にして立てこもった。そこに、憲兵隊の中佐アルノー・ベルトラムが丸腰で人質交換を申し出て、すべての人質が助かったけれど彼は喉を切られた致命傷でその夜に亡くなった。
中佐が通話中に開いておいた携帯電話で中の様子を知ることができた特別隊が中に入って犯人は射殺された。

日本のニュースでは警官とあったが、中佐は、士官学校をトップで卒業した軍人で、この犠牲的行為について彼を知る人のだれもが意外ではない、と証言するように、正義感や義務感の強い人だったそうだ。

で、フランス中が、中佐を英雄だと祀り上げている。
数年来のテロで今回初めて「犠牲者」だけではなく「英雄」が生まれたと。

その中で、極左政党の前議員が、ある環境問題の闘士であった友人がそれを排除する憲兵だか機動隊だかによって殺されたことを思い出していい気味だと思った、マクロンに投票する人間が一人減った、などという感じのツイッター発言をして、すぐに「テロ擁護」で訴追され、党からも除名された。
ある特定の人間が特定のシチュエーションで、武装した攻撃者から、自分を身代わりにして他の人を救った話なのに、政府側の人間だとか、マクロンに投票する側だとか、レッテル付けして安易に満足感を表明したのだから、この人を制裁するのは妥当だ。

もちろん、このテロリストと同じく、「イスラム過激派」やISシンパの人はいるはずで、そういう人たちは、中佐の死を神罰とみなし、射殺されたテロリストがジハードの殉教者だとみなしているかもしれない。まあ、そういうことをつぶやけばそれこそ政府のテロ監視網に引っかかっているだろうけれど。

こういう場合、中佐は、例えば武装して突入した銃撃戦で殺されていたとしても、殉職ではある。
でも、フランスで、こういう情況で殺された時は、「英雄」であり、「殉職」よりも「殉教」に近いニュアンスとなる。

ノルマンディの教会でミサの場でテロリストに殺されたアメル神父ももちろんその宗教的立場によって標的となったのだから「殉教者」だが、フランス語でmartyreというと、殉職も含めた広い意味になる。もとは信仰の「証しをする人」という意味だが、信条に殉じて苦難を被る人として使われ、恋愛に殉じて死んでも同じ言葉が使われる。
だから、このような死には当然、宗教的含意がある。

逆に、「英雄」という呼称も、カトリック教会の尊者、福者、聖人などの正式認定の時に条件として使われる言葉だ。
信仰を英雄的に生きたかどうかというのが照査される。
その時の「英雄的」というのはもちろんテロリストに素手で相対したというようなものではない。
日本語の英雄というのはいかにも雄々しい感じだけれど、蟻の町のマリアとして戦後に社会奉仕を続けた北原怜子さんも、「英雄的徳行」を認定されて「尊者」となっているように、英雄的かどうかは、ぶれない生き方にかかっている。

では、たとえば、唯一神を否認して不信心な生き方をしている罪人たちを殺して自爆したり殺されたりするという「犠牲」の精神をぶれずに持って、殉教者として天国に迎えられることを信じるテロリストも、「英雄的」なのだろうか。

この時の「犠牲」という言葉も、キリスト教文化圏では共通しているが、フランス語ではsacrificeでラテン語のsacrificium = sacer facere つまり、何かを「聖なるものにする」ということだ。もとは神への供儀で、どんな宗教にも共通した典礼の一種だ。

今回の中佐の行為は職業上の任務を超えて、自分で選択した「犠牲的行為」だった。けれども、それは彼がその職業、任務を選択した根っこの部分にある奉仕の精神の延長にある。

今回の英雄的「犠牲」と「殉難」のことを、アウシュヴィッツで、一人の脱走囚が出た見せしめとして10人の囚人が無作為に選ばれて餓死房に入れられた時に、妻子がいるから死にたくないといった男の代わりに身代わりを申し出て餓死刑(2週間後、まだ生存していた3人と共にフェノール注射で殺害された)で死んだフランシスコ会のコルベ神父と比較する人もいる。

中佐も、コルベ神父も、他の人の命が続くために自分の命を捧げた。

自分の命をsacrificeにしたことで、「いのち」を聖なるものにした。
だから、コルベ神父も、中佐も、被害者としての「犠牲者」ではなく、結果として「殺されはしなかった」。
これもとてもキリスト教的だ。

イエスは、ローマ兵が自分を逮捕しに来た日、周りにいた弟子たちに害が及ばないようにかばった。

>>>すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(ヨハネによる福音書18,8)<<<。

その前にも弟子たちに命についてこう言っている。

>>>わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。(ヨハネ10,17-18)<<<

つまり、他の人の命を救う犠牲としての死は、命を奪われる死ではなく、いのちを与える死であり、「私を殺しても命を奪うことはできない」ことになる。

その考えでいくと、聖戦と称して他人を殺傷し自分が天国にいくつもりの「殉教」を目指すテロリストの「犠牲」は、殉教でも、英雄的行為でもない。

このことについて、神がモーセに与えたという十戒の「殺すなかれ」という戒律は、「あなたは他人の命を奪うことができない」という意味だとラファエル・エントヴェンが言っていた。

十戒にある戒律を人は守れない。
守れない戒律を神が与えるわけがない。
あの言葉は、命とは聖なるものであることを示しているのだ、という。

希望があるようで実は絶望的でもあるなあ、と思っていたら、禅宗のお坊さんのブログで「親鸞聖人における無戒の主張について」という記事を読んで愕然とした。

>>>曹洞宗では授戒を行うのに、浄土真宗では授戒をしないのは何故か?という問いをお寄せいただいた。そこで、拙僧なりに現在学んでいるところから、浄土真宗に於ける凡夫無戒について検討したい。なお、敢えて「浄土真宗」としたからには、親鸞聖人の一部の教説のみを挙げて、さも真実であるかのような論じ方をせず、同教団が歴史的に抱えた問題を探っていきたいと思う。<<<

という前置きで紹介される浄土真宗の聖典の中で引用される伝・最澄撰『末法灯明記』というテキストがある。

単純化して言うと、釈尊入滅後、時が経つにつれて、正法の時代、像法の時代、末法の時代と「劣化」して、戒律も、「破戒」の段階を経て、末法となると「無戒」の時代となるという話だ。そして、もう親鸞の頃は「末法」の世だと思われていたから、もう「戒」を授けたり授かったりする「持戒」の意味はない、だから妻帯しても魚を食しても「破戒」ですらない。浄土真宗には「戒名」なくて「法名」というのもそれが理由なのだ。

記事の分かりやすい部分を引用してみよう。

>>>仏教者として価値ある存在(無価というのは、世俗的な価値を超越した存在のこと)のことを指摘しているのだが、そこで、「いはゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字」という順番を挙げているわけである。通常であれば、これは如来から始まって、最後「無戒名字(ただ、比丘という名前のみがある存在)」にまで落ちるのだが、これを、「正像末の時の無価の宝」という、時代的な評価を重ねることで、「初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり」として、「無戒名字」については末法の時代の「無価」として評価されるとしたのである。いわば、これこそが、末法における「無戒」への評価の根拠になる一節だといえる。それを受けて、親鸞聖人は、以下のように示される。

無戒名字の比丘なれど 
末法濁世の世となりて 
舎利弗・目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ   
 「愚禿悲歎述懐」、『正像末浄土和讃』、『浄土真宗聖典』619頁

この一節だが、結局「無戒」であり、名ばかりの比丘ではあるが、末法の世となってしまえば、その存在こそが舎利弗や目連に等しい「無価」なのであり、供養し尊敬することが勧められる、という理解が出来ようか。<<<


数え方にはいろいろな解釈があるそうだが、もう何世紀も前から、人は「世も末だ」、「末法の世だ」と認識してきたわけだ。
そして末法の現実に合わせて「聖なるもの」や「完成」や「悟り」のハードルがなんとなく下がっていくというか、形が変わっていくというのは分からないでもない。

それにしても「無戒」の時代って…。

近頃は、ロシアでもエジプトでも中国でも事実上の「独裁者」が生まれるし、日本でも公文書改竄で民主主義の根幹が揺らいでいるし、アメリカの大統領は性的スキャンダルを騒がれているし、なんだか本当に「無戒」の末法的状況を思わせる。

そんな時代だからこそ、他人の命をつなぐために自分の命を捧げる「英雄」が今回のテロで生まれたことに多くの人が救いを感じているのかもしれない。

ドラッグや盗みなどの軽犯罪者が過激化シテテロリストに変貌する時には、「聖戦」の英雄になりたいという「英雄」志向があるとも言われる。

それを予防する意味でも、無戒の末法においても命を尊び続ける信念を捨てない「英雄」が称えられるのは悪いことではない。

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by mariastella | 2018-03-29 00:05 | フランス
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