近頃、世界のどこでも、政権支配者たちの独裁や横暴や、腐敗やその制裁のニュースが聞えてくる。
プーチンやトランプやシリアのアサドや中国の習近平や北朝鮮の金正恩はもちろんだけれど、韓国やブラジルの前大統領たちが有罪判決を受けたり、フランスでも6年前に引退したサルコジがしつこくいろいろな疑惑を追及されたりしている。
日本の官邸をめぐるさまざまなスキャンダルも目まぐるしく展開している。
でも、考えてみれば、あらゆる支配者とか権力者の地位というものと、「便宜供与」と「利益誘導」というのは、多かれ少なかれどこでもセットになっているのではないだろうか。
それはどんな小さな組織でも変わらない気がする。
もちろん、何かというと「我々の血税」を私物化した、と言われるような「公務員」の領域における権力者の場合は、私企業のトップとは責任の度合いが違うのは分かる。
それを思うとよくできていると思うのは、例えばカトリックのヒエラルキーや修道会などでは上に立つ人はすべて「奉仕者」と位置づけられ、一番上の人は「奉仕者たちの奉仕者」と呼ばれ、信者からの崇敬を赦される「尊者」なども「神の下僕、神の婢(はしため)」などと呼ばれることだ。
ここから派生して、国のために働く公務員もcivil servant と呼ばれ、「公僕」という日本語訳もちゃんとある。
でも、その「公僕」。
民主主義国では「主権者である国民に仕える者」という言葉があるのにかかわらず、一部の人への「便宜供与」と「利益誘導」が伴うのは暗黙の了解なのだろう。
だからこそ、「直訴」「陳情」というのも生きてくるので、ヒエラルキーの壁があっても、弱者が権力者に直接窮乏を訴えれば、それを解決するための「便宜供与」を図ってもらえる道も開けるのだ。
「小さきものの声を聞く」というところが大事で、そこに私利私欲を入れてはいけないし仲間内の便宜供与は慎重にすべきなのはいうまでもない。
でも、仲間を、家族を、知り合いを、同郷者を優遇するという誘惑は誰の中にもある。どんなに小さな権力でも、権力を手にしたら、その誘惑は権力の属性のようについてまわる。
自国ファーストだとか極右の論理というのも突き詰めると同じだ。
仲間内の「便宜供与」と「利益誘導」の地平から出発して、他者を排除したり、搾取したり、無視したりすることに行きつくハードルは限りなく低い。
いったんそこに行きつくと、後は、他者を憎んだり攻撃したりすることにまでたどり着く。
大きな歴史も、私たち一人一人の人生の経験も、それを示唆している。
どんな相対的な小さな権力でも、手にしたらすぐに「奉仕者」として生きよう、というくらいの自覚がなければ、私たちは必ず、いつかは、腐る。