往きの機内で観た三つ目の日本映画は『幼な子われらに生まれる』三島有紀子
再婚同士の夫婦の間に自分たちの子供が生まれるが、他の子供たちとの間にさまざまな葛藤が、というストーリーということで、赤ちゃんをめぐってどう関係が変化するかという話かと思ったら、赤ちゃんは最後の最後にしか生まれない。この赤ちゃんが生まれたこと自体が「結論」であるわけだ。
これは、ドキュメンタリー、というか他人の私生活と内面の動きを内側から「覗く」というタイプの映画として出色だ。監督の三島有紀子という人すごい。
主演の浅野忠信も、仕事と私生活、しかも普通の男が二つのステップファミリーの間で全力、最善を尽くしながらも無力感と怒りの中で揺れ動くという役を等身大に演じられるのがすばらしい。
実の娘の母親が学者のインテリで同業者と再婚し、義理の娘たちの父がDVの末の家庭脱落者という対照的な設定なのも、それぞれのささやかな幸せややりきれない不幸をきっちり描いているのでカリカチュアにはなっていない。自分と自分の周りに命があって、それを大切にすることが生きることなんだというメッセージが最後には自然に浮かび上がる。
でも、『三度目の殺人』でも思ったけれど、どうして「父と娘」とか、ともかく「娘」という設定の方が「お話」が作りやすいのだろう、と思ってしまう。
これらの映画の中では、「男」たちは、自分たち自身が永遠に「息子」の立ち位置に置かれているるともいえる。
「娘」の方は、「母」になるとスタンスが変わり、さらに「女」というだけで周り「男」たちにプレッシャーをかけている、という感じもする。