往きの機内で観た最後の映画は
スティーヴン・フリアーズ監督の、『ヴィクトリアとアブドゥル』だ。
81歳というヴィクトリア女王の孤独を名演のジュディ・デンチ。この人は30年前にも『Queen Victoria 至上の恋』という映画で、やはり使用人を優遇してスキャンダルになるストーリーをやったが、ヴィクトリア女王のキャラってある意味これだけわかりやすいともいえる。
優しさを求め、女王でなく「対等」に接してもらいたい、つまり、人間として生きたい、というわけだ。
この「ガラスの壁」は厚く、全くアウトカーストの無邪気なのか単に人間性や共感力が優れているのかわからないような人だけが時にするりと抜けてみせる。
アブドゥルの場合は、植民地インドの有色人種、しかもヒンズー教ではなくムガール帝国のムスリム(だから兵士たちは、イギリス軍が大砲のメンテナンスに豚の脂を使っていることが許せなくて反乱を起こしたのだという。)などと異質性が半端ではない。
当時、世界の四分の一を支配したという大英帝国だが、そこに君臨する首長の「人間性」は誰からもリスペクトされない。
今の民主主義国にも信教の自由や職業選択の自由や選挙権すらない元首や特別な家族たちがいる。
人々のエゴによって犠牲に供されるのは、分かりやすい無産者や弱者だけではないのだなあと気づかされる。
アブドゥルの場合も、『最強のふたり』の、車椅子の大金持ちと使用人の友情のことを思い出してしまった。本質は同じなのだけれど、たとえ何歳の年の差があろうと、ヴィクトリア女王の場合は、よい同性の友情が得られなかったのが残念で、娘との関係はどうだったのだろうとも思うが、それも、姻戚関係などでままならなかったのだろう。
ある意味で「失うものが何もない」無産者の方がハードルを越えてくれる。
でも、それが男と女であるとスキャンダルはどこまでも大きくなる。
テーマの「普遍性」をねらっていない分、物語として飽きずに見ることができた。