日本でおひとりさまについての対談本を買うために青山ブックセンターの新書コーナーに行った時、他の新書を2冊買った。その一つがやはり対談本の『都市と野生の思考』(インターナショナル新書)だ。
東京生まれで京大に学び京大総長になったゴリラ研究の山極寿一さんと、京都生まれで京大に学び、阪大総長を経て京都市立芸大の学長になった哲学者の鷲田清一さんによる自由な対話。「おひとりさま」の対談よりずっと楽しく興味深い。
京都に長いお二人が京都で対談ということで、「京都贔屓」がなかなかなものだ。
でも、「歴史のある景観」「伝統を残す町」の賛美には違和感がある。
京都はコミュニティが根を張る場所で、成熟した町の強靭さがある。
「この街はどこを歩いていても、そこかしこに過去の佇まいを感じる。何百年も前にも同じ場所を、今とは異なる装いの人たちが歩いていた姿が目に浮かぶ。連綿とした歴史の重みを感じれば、人はおのずと居住まいを正すものです。歴史の息吹を孕む空気が、今の世界だけ基準に考えていてはだめだと教えてくれる。(これは東京生まれの山極さんの発言)」
なぜだか、「なるほど古都ってすばらしい」と全然思えなかった。
普通なら、やはり何世紀もの佇まいが残っていて歴史上の事件や人物たちの幻を見てしまいそうなパリの町が身近に40年以上も暮らしている私にとって、
「そうだよね、豊かな文化が残る古都で歴史的なパースペクティヴを持てるのって大事だよね」と共感、同意できてもよさそうなのに。
実際、ヨーロッパの数ある大聖堂や城や宮殿、いやパリの下町を歩いているだけで、ああここはあの画家が、あの詩人が住んで眺めていた街並みなんだなあ、などと感慨にふけることは少なくない。
でも、京都についてのこの部分を読むと、なぜだかすぐに、
京都だって、応仁の乱で焼けただろ、
先の大戦で絨毯爆撃されて文化財や景観を失った町は重みがなくて強靭さもないのか、
広島はどうなるんだ、
長崎は ?
沖縄は ?
などと次々につっこみが浮かんできた。
「今、ここ」の基準にだけ振り回されるのは良くない、という山極さんの意見は正しい。
でも、「歴史の重み」のプレッシャーで「居住まいが正される」というのは怪しいと思う。
もちろん、マクロンがプーチンをヴェルサイユ宮殿で迎えたり、トランプ大統領にアンヴァリッドのナポレオンの棺を見せつけたり、「歴史の重み」で相手を圧倒するという政治的戦略もあるくらいだから、インパクトはあると思う。
「古都」は演出できるし、「商品」にすらなるのだ。
けれども、たとえば、古戦場を見て、栄華のはかなさを思う人もあれば、古代戦士の雄姿を思って鼓舞される人もあるだろう。
歴史の「重み」とか「息吹」とか言っても、その「歴史」こそ、視座によってまったく様相も変わればコンテンツも変わるのだ。
どの場所も、「失われたもの」の方が残っているものよりもはるかに多いし、そこで死んでいった人たちの方が生きている人よりもはるかに多い。
今はもうそこにないもの、見えないものに向けるまなざしこそが、今なすべきことを示唆してくれるのかもしれない。
(この本は、この部分に最初にこう反応してしまったが、家族や食や性についてとびきり興味深い話題をたくさん提供してくれる。いろいろ参考になった。後日あらためてコメントするかも。)