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L'art de croire             竹下節子ブログ

「トリスタンとイゾルデ」と渡辺護さん

トリオの仲間には内緒だけれど、9月にバスティーユのオペラ座で上演されるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前売り券をひと月ほど前に購入した。

ワーグナーの感性というのは、私たちのフランス・バロックの感性とは対極のところにある。

エリック・サティがペラダンらのバラ十字団のワーグナー趣味と決別したのも同じ理由だ。

バロック・オペラに夢中になって以来、私はワーグナーを聴いていない。

ワーグナーでは踊れない。

踊り手としてはさすがにチャイコフスキーのバレエ曲では体が動くけれど、チャイコフスキーの交響曲にはもう耐えられない部分がある。

パリのメトロでトリスタンとイゾルデの大きな広告を目にしたとき、なぜか、反射的に、観にいこうと思った。正規料金で買えば日本円で2万円くらいの席だから、「ちょっと見てみよう」という感じではない。

思うに、子供時代や少女時代の体験というのは身に沁みついていて、後で変化したり進化したりするというより、実はどこかにそのまま残っていて、突然表面に出てくるもののようだ。


私にとってのクラシックバレーもそうだった。クラシックバレーのクラスに週2回通って数々の発表会や公演やテレビ出演などをしていた時期は実は8年くらいでしかない。

その後、バロックバレーに出会ってからは20年以上になる。

振付もしたし、いろいろな形で踊ってきた。理論も振付譜も研究したし、何より、トリオの演奏の解釈の一要素となってきた。そして、バロックバレーを踊ることは楽しい。体に負担がなく、激しいジャンプや連続回転などもないから年齢的にも楽だ。

それでも、10年ほど前に、大人のためのクラシックバレーのクラスに入ってから、体は堅いし、脚は上がらないし、いろいろ不自由でつらいのに、生まれた川に戻ってきた魚のような気がした。

好きかと問われれば、よく分らない。人前で踊る気もない。

バロックバレーのエスプリと対極にあるようなミリタリーテイストのレッスンは、本当なら私の一番苦手とするものだ。なんでわざわざ、と思う。それなのに、手も足も、体も、自然に動き、手も足も体も、「なつかしい」と言っている。

理屈ではない。バロックダンサーには元クラシックダンサーからの転向も多い。でも、バロックをずっとやってきて、またクラシックにも通い始めた、などと話せる雰囲気ではない。


で、ワーグナーのオペラも、実は、体がふるえるほど「なつかしい」カテゴリーなのだ。


音楽の趣味としては、今や、「ワーグナー礼賛」の人とは音楽的には全く言葉が通じない感じなんだけれど。

自分の中の「なつかしい」古層に目を向ければ、そこにバロック音楽をやってきた後で振り返っての新しい感慨がある。


話は中学生時代に遡る。

当時の日本でワーグナー研究家の第一人者であった渡辺護さんとあるご縁で知り合ったのだ。

私はその頃大阪にいたので東京の渡辺さんとは何度も会ったわけではない。

で、「文通」が始まった。今思うと、中学生の私と「対等」に付き合ってくれたのだ。

もちろん私は中学生の頃からクラシックのコンサートに通っていた。しかも今思うと、いわゆる海外の有名アーティストのリサイタルやコンサートばかりだった。

高校に入ってから、クラシックファンの友達もできた。

彼らに渡辺さんがオーストリアから送ってくれた絵葉書を見せた。「ザルツブルクのモーツアルトテウムに来ています」とコンサートの感想も書いてあった。1ドル360円の時代、「海外」がはるか彼方だった時代だ。渡辺さんからの手紙は別世界の出来事のようだった。

高校1年の春、大阪国際フェスティバルの10周年記念にバイロイト・フェスティバルの引っ越し公演が日本で初めて上演された。舞台の前の聴衆から見えないところにオーケストラ席が設けられたのも日本で初めてだった。今なつかしくてネットで調べると、当時の普通のコンサートの10倍くらいの数万円という料金だったらしい。

で、「トリスタンとイゾルデ」。その舞台ははっきりと覚えている。

私は母と一緒に渡辺さんから招待されていた。彼が上演前に幕の前で「解説」をした。

幕間には、彼を楽屋に訪ねて行った。その年兄がちょうど東大に入学したばかりで、渡辺さんは東大で音楽美学の授業を受け持っていたから、「ああ、あと3年したら、東大で会えますね」と言ってくれた。実際に、数年後、彼の美学の授業に出席した。不思議なことだけれど、その講義の内容は全く記憶にない。ただ、講義の後に教授と友人として親しく話すことが非現実的だったのは覚えている。

その後、私がフランスに暮らすようになっても手紙のやりとりは続いた。私がフランスに来た年に、渡辺さんは東大を退官してドイツの日本大使館の公使になった。

ドイツ語専攻だった私がフランス語に転向したのも距離ができた理由だったかもしれないが、ドイツで再会することもなく、いつのまにか音信が途絶えた。

wikipediaで見ると、「ドイツ人」だと言われていた奥さまはルーマニア人で、渡辺さんは一度日本に戻った後、ご長男の住むイギリスに移住なされたそうだ。2007年に92歳でお亡くなりになっている。

渡辺護さんは私にとって「外国」「クラシック音楽」が受肉したような存在だったのだ。彼はウィーン大学も卒業していてモーツアルトの研究者でもあったのだから、今思うと、もっとモーツアルトの話をきいておけばよかった。でも、あの「トリスタンとイゾルデ」によって、渡辺さんとの思い出は「ワーグナー」で上書きされたのだ。

私には若い頃に親しくしていただいた「大先生」が渡辺さんの他にも数人いる。

世間的には偉い先生でも、いわゆる「師弟関係」ではないプライベートな間柄だった。

50歳も年上の方もいた。なぜか、どなたとも「対等」にお話ししていた。

今思うと、それこそが若気の至りだったと思う。「対等」になどふるまうよりも、できるだけ質問攻めにして、いろいろなことを教えてもらえばよかった。

でも当時は、彼らの著書は読んでいたものの、手紙のやりとりや実際の会話の中では、私も同じくらいおしゃべりしていたのだ。実にもったいなかった。


今の私は、逆に、10歳の少年とでも真剣に対等に哲学の話をすることがある。

対話のフィールドに、年の差など関係ないということが分かった。

むしろ、若い友人たちから彼らの見方や彼らの世界の情報を教えてもらい吸収したいという気持ちの方が強い。私が若かった頃の年上の友人たちも、そういう自然体だったのだろう。若かった私は「対等」であることに満足していた。教えを請わなかった。

歳を重ねるにつれて学ぶことに貪欲になっていく。


9月半ばの「トリスタンとイゾルデ」、わくわくする。








by mariastella | 2018-08-15 00:05 | 音楽
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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