ヴェズレーのバジリカ聖堂の裏手は大パノラマが広がる崖の上。
この「聖霊の満ちた丘」で、1146年3月31日に、シトー会の創始者クレルヴォ―のベルナルドゥスが、第2回十字軍を呼びかけ、鼓舞する説教を行った。フランス王ルイ7世もいた。
ヴェズレーはその1世紀前からマグダラのマリアの聖遺物を祀ったことで絶頂期にあった。
そのことは歴史的には興味深いけれど、21世紀に入る前にヨハネ=パウロ二世が十字軍の誤りについて謝罪したように、「十字軍の盛り上がり場所」というと今では政治的公正に反して後ろめたいのでは…と思われるかもしれない。
ところが、さすがに「聖霊の宿る丘」、実は、ヴェズレーは第二次大戦後の平和のシンボルにもなった。
それは十字軍ならぬ「十字架の道」である。
十字架の道と言えば、イエスの受難と復活までを14のシーンに表現して教会の内側にぐるりと置かれている絵などを順番に回って祈ってイエスの受難の追体験をする「行事」だ。復活祭の前の聖週間にどこでも行われている。(野外で実物大に作られているものもある。たとえばポンシャトー)(この頃はブログに写真を貼り付けていなかった。『キリスト教の謎』p231に載せた。)
どこの教会の「十字架の道」もそれぞれ個性もあり歴史もあって興味深いのだけれど、なんと、ヴェズレーでは、大きな木の十字架がずらりと並んでいるのだ。
それは、戦後間もない1946年に、ベルナルドゥスの十字軍呼びかけの800年記念が行われた時のことだ。
二度の大戦にすっかり疲弊したヨーロッパの国々はもう二度と互いに殺し合うような愚行をしないように誓い、憎しみに打ち勝つことを祈った。
で、十字軍ではなく、14の「平和の十字架」を奉献することにしたのだ。
ヴェズレーは平和の出発点とならなくてはならない。
フランスの各地だけではなく、イギリスからも、ベルギーからも、スイスからも、リュクサンブールからも、イタリアからも次々と十字架を運ぶ徒歩の巡礼者たちがヴェズレーに集まった。何のしるしもないシンプルなものもある。
これはアルザスからだと刻まれている。
これはベルギー。
これはリュクサンブルク。
こうして14の十字架がそろうことになった。
すると、近くの捕虜収容所にいたドイツ軍の捕虜たちが、自分たちも十字架を奉納したいと申し出た。彼らの十字架は、戦火で朽ちた民家の梁を使ってつくられた。
十字架の道はイエスの埋葬で終わる。
15本目の十字架は、和解と平和のシンボルで、まさに「復活」であり、新しいヨーロッパの誕生への希求となったのだ。
15本の十字架が進む行列と共に、3万人の巡礼者がヴェズレーに集まった。
ヴェズレーはこれを「平和の十字軍」と呼んだ。
800年前の「侵略十字軍」は、ヨーロッパを焦土化した戦争の後で、「平和の十字軍」に上書きされたのだ。
ヴェズレーは、いわゆるユネスコの世界遺産指定でもあるけれど、単なる歴史遺産ではない。
壮麗な過去の栄光や過ちの先に、よりよい未来に向かって進もうという祈りを促す何かがあったのだ。(続く)