バジリカ聖堂を出てすぐ右に、ジュール・ロワの家がある。
ここから見える聖堂は最高のアングルで、ヴェズレーへの「狂おしい愛」を切々と語り続けた彼の冥利に尽きる。
この作家は、1907年フランス領アルジェリアに生まれ、空軍パイロットとして第二次大戦で戦い、最初はヴィシィ政権を支持したが後でドゴールの自由フランスの空軍に加わる。第二次大戦後はすぐにインドシナ戦争に従軍したが、このあたりでフランス軍も含めた戦争の野蛮さや不条理に耐えられなくなって辞職。ジャーナリストとしてアルジェリア戦争にも従軍し、その残虐さを告発し、数々の戦争を総括するアクティヴな平和主義者になった。
1978年からヴェズレーのバジリカ聖堂の斜め向かいの家に住み、多くの政治家、文学者らが彼のもとを訪れた。2000年に93歳で死に、ヴェズレーに埋葬された。
彼の書斎がそのままの形で残されている。ここも無料。
これはロストロポーヴィチがヴェズレーでのバッハ無伴奏チェロ組曲のコンサートと録音をした際の記録を本にしたもの。『ロストロポーヴィチ、ゲンスブール、そして神』
非常におもしろい。
ヴェズレーでロワと暮らしていたタチアナ夫人はロシア人だったのでロストロポーヴィチのために通訳もした。
ロワは、信者でないとバッハは弾けない、と断言している。
また、バッハに一番感謝しなければならないのは神だとも。
復活祭の聖週間、3月のまだ底冷えのするバジリカ聖堂での練習風景やコンサートでのアンコール演奏が五番のサラバンドというさらに凍りつくチョイスなどが詳細に書かれている。
私はロストロポーヴィチのこの演奏を聴いたことがないので何とも言えないけれど、ロワの文を読む限りは、「舞曲」とはかけ離れた感じだったようだ。
最も興味深いと思ったのは、ロストロポーヴィチが、自分は絶対にロシア正教の教会の中では弾かない、と言ったというエピソードだ。なぜなら、装飾品が多すぎるからだそうだ。
確かに。
ドイツ、イタリア、ハンガリーなどのカテドラルにもインスパイアされなかった。
ヴェズレーではすぐにここがバッハを弾く場所だと分かったという。
ヴェズレーのバジリカ聖堂は、簡素そのものだ。音響はすばらしい。
今回ヴェズレーに来た目的の一つが夜のコンサートだ。
「奏楽の動物たち」が修復されず居場所を与えられなかった聖堂で、17世紀のミサ曲を聴く。
(続く)
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